西アフリカのある小国で、僕が材木会社の現場監督として働き始めたのは 1987 年、つまりあの酷たらしい内戦が始まる二年ほど前のことだった。それからほぼ五年、つまり内戦が始まってから三年間、僕はその国で過ごすことになる。思い出が一杯詰まった、忘れられない国である。
1989 年に本格化した内戦では、華奢な体で夢遊病者のように AK-47 ライフルを撃ちまくる「少年兵」の姿が国際ニュースでたびたび報道された。しかしテロや核戦争危機などの重大ニュースがたくさん飛び交う最近の国際社会では、アフリカの小国の少年兵の話など、すぐに忘れ去られてしまう。そしてこうしたバッドニューズ以外に、その国が話題になることはまずない。
そんな世界の片隅にある貧しい国で、僕は軌道に乗りかけていた材木ビジネスをなんとか成功させようと奮闘していた。だから反政府軍が急速に勢力範囲を広げ始めてからも、国外に逃げようという気にはならなかった。「部族間のもめ事なんかすぐ治まるだろう」と高をくくっていたのである。
そのうちに僕の住んでいた村もしばしば反政府軍の来訪(つまり体の良い略奪)を受けるようになる。それでも、入れ替わり立ち替わり現れる「新政府の責任者」を名乗る軍人と、つくり笑顔で交渉しながら、三年近く仕事を続けた。会社が重機や運搬用トラックにかなりの投資をしていたので、できれば全面的な引き上げは避けたいという事情があった。
最後には、機械や設備をすべて残して、命からがら川を渡って隣の国へ逃げ出すことになる。その時の体が震えるような記憶から、僕は数ヶ月間、言葉では表すことができない不安や絶望感に悩まされた。悪夢にうなされることもあった。当時はそんな言葉を使う人はいなかったが、あれが今でいう「トラウマ」というやつだったのか。
それでも僕にとってその国は、人生の節目となる時期を過ごした大切な場所だ。一緒に苦労した同僚や現地労働者との関わり。ライバル会社との駆け引き。ジュージュー(juju)という西アフリカのまじないと呪いの儀式。そして自分自身も呪術の標的にされてヘルペスや肝炎を発症したこと。みんな忘れられない思い出だ。
悪いことばかりではない。会社のビジネス戦略の一環ではあったが、近隣住民のために学校や診療所を建てた。熱帯雨林の奥深く住む人たちとは、初めて会ったのに不思議と気持ちが通じ合った。森に棲む動物の肉は柔らかくて美味だったし、木で熟したマンゴやパパイヤは、この世のものとは思えないくらいうまかった。ジャングルで遭遇する珍しい動植物にはしばしば目を奪われた。図鑑を持って行かなかったことを今になって後悔している。
いったんは脱出したその国に、内戦が縮小傾向になったのを見計らって僕は再入国した。無数に設けられた臨時政府のチェックポイントを通過しながら、重機のメカニックと一緒に現地に残してきた機材の見回りを行う。さらに、港に運んで殺虫剤噴霧を指示しておいた高級材を苦労してフランスの港に輸出した。
この「忘れられない国」シリーズでは、数回にわたって三十年前の記憶をたどろうと思う。それによって何が見えてくるのか、今のところ不明だ。でも間違いなく何かが見えてくると僕は確信している。