懐かしい飛騨街道 – 日和田集落を訪問

 江戸時代の飛騨高山と木曽福島との間にはかなり頻繁な人々の往来があり、物資の輸送も頻繁に行われていた。中でも注目したいのは、富山湾で獲れたブリ(鰤)が、年末の厳寒期に高山から長野県内に大量に運ばれていたという事実だ。飛騨街道は「鰤街道」とも呼ばれていたほど。富山で塩漬けにされた鰤を、飛騨の歩荷(ぼっか)と呼ばれる人々が二週間以上かけて木曽まで担いできた。高価だったが、新鮮な鰤にはない独特の味わいがあり、信州の年越しには欠かせないごちそうだった。

 そんな事情もあって、木曽福島や開田村には昔から「年取魚はブリに限る」という人が多く、年取と正月には、ほとんどの家でサケではなくブリを食べていた。これは松本辺りでも事情は同じで、大晦日には鰤の塩焼き、元日のお雑煮には鰤の切り身というのが我が家の定番だった。

 現代の車社会では、高山市と木曽町を結ぶ国道 361 号線は、道の駅以外には立ち寄る場所も特にない山間の舗装道路。ここを歩いて通過するなんてとても想像できない。しかしほんの 120 年ほど前の明治末期でさえ飛騨街道は、(もちろん牛馬は使うが)徒歩による重要な人流・物流ルートとして賑わっていたのだ。

 木曽町から車で一時間ほどのところ、岐阜と長野の県境近くに日和田(ひわだ)という集落がある。ここには「馬大尽(うまだいじん)」とも呼ばれた原家の豪邸があった。江戸時代末期から明治初年にかけて、開田村(現在は木曽町の開田地区)は木曽馬の主産地として全国的に有名だった。開田にほど近い原家も馬で財をなした大地主で、木曽福島の「馬市」に出される馬の約二割が原家の供給によるものだったと言われる。

 街道沿いにある「一位森(いちいのもり)八幡神社」は木曽義仲ゆかりの神社だ。創立は平安末期の 1181 年。境内には天然のイチイの木 200 本を含む珍しい原生林があり国指定の天然記念物になっている。ご神木であるイチイの巨木は樹周りが 3 メートルもあり、触ると不思議な力を授かると言われる。「一位を授かる」という語呂合わせからアスリートのパワースポットとして人気。

 長峰峠にある木曽義仲の駒掛岩。平安末期、木曽義仲が平家討伐のために挙兵した際に、木曽福島の日義を出発して第一夜の陣を張った場所がここだと言われている。駒掛石には、その時に義仲の乗馬が勇みかかってできた穴と蹄形が残っている。

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