岡谷から桜沢までの初期中山道を二回に分けて歩く。前回の記事「初期中山道(岡谷から小野宿)」を書いたのは三月初旬だったので、それからすでに一ヶ月近く経過している。そのときは諏訪湖畔のJR岡谷駅を出発し、小野峠を越えて小野宿まで歩いた。二回目の今回は、その小野宿を出発して牛首峠を越え、桜沢で中山道に戻る。
■ 青線:中山道 (Nakasendo after 1616)
■ 赤線:初期中山道 (Early Nakasendo 1601 – 1615)
これまでの中山道歩きは、ほぼすべて京都方向から江戸に向けて、つまり西から東に歩いてきた。唯一の例外は、 Walking Nakasendo – Tsumago to Magome(妻籠から馬籠)という英語の記事。そしてこの初期中山道も、電車を利用するという便宜上の都合で東から西に歩いている。
この初期中山道歩きは贄川宿の北で中山道(R19)に合流した時点で一応終了となるが、今回は電車での移動を考慮して、桜沢で右折してから R19 を歩いて最寄りの JR 日出塩(ひでしお)駅まで行くことにする。
ここで中山道を歩く方向についておもしろい情報を一つ。中山道を歩く人がよく利用するある旅館のご主人によると、日本人旅行者のほぼ 90% が東から西へ、つまり江戸から京都に向かって歩くのに対して、外国人の中山道ウォーカーはほぼ 100% が西から東に向かって歩くという。
さて、今週の長野県内はあちこちで梅が満開を迎えている。比較的気温の低い小野でも、民家の庭先には立派な梅の大木があちこちで見事な咲きっぷりを見せている。
JR小野駅のすぐ近くにあるコンビニ。飲み物などを補給するのに都合が良い。
「しだれ栗入口」の信号。前半の記事 初期中山道(岡谷から小野宿) では、岡谷方面から小野峠をこえ、しだれ栗公園を経て、この交差点で小野宿にたどり着いた。ここからしばらく、小野宿の町並みを見ながら国道 153 号線を南に向かって歩く。
ここが中山道だった当時をしのばせる立派な民家が何軒か見られる。この屋敷ではちょうど白梅が満開になっていてなかなか見事だ。
小野宿には、本陣も脇本陣もない。小野家が問屋兼名主として本陣の役目を果たしていた。小野宿は 1850 年の大火で江戸時代の家屋はすべて焼失しており、当初の小野家住宅はその時に消失した。この住宅は 1859 年に再建されたもの。
しばらく歩くと「小野下町」という信号がある。これを右折して国道 153 号線と別れ、県道 254 号線を牛首峠・木曽方面に向かう。
初期中山道は、ほぼ県道254号線(楢川岡谷線)に沿っている。積雪と凍結のため、冬季は通行止めとなるが、歩く分には全く支障はない。
畑の真ん中に立つ一里塚の標識。
最近になって設置されたらしいきれいな案内板。
長閑な風景。この辺りの棚田の美しさは特筆ものだ。寒さの厳しい小野でも栽培できる「小野早生」という品種の米がここで開発され、全国の寒冷地に広まったという。
双体道祖神。
だんだん勾配がきつくなる。
峠の手前の東屋。小野から桜沢までの間で、椅子に座って休憩できるのはここだけだ。眺めが良く、晴れていれば蓼科山や八ヶ岳が良く見えるらしい。
この日は曇りがちでうっすらと。
一里塚。原形は留めておらず、街道の反対側にあるはずの塚は完全に消滅している。
車両通行止めのゲート。
この案内板を読むと、なぜ「牛首峠」と呼ぶのかが分かる。それにしても、木曽の地蔵峠にある縁結びの石像といい、この牛首峠の祠といい、お互いに恋い焦がれる二人がそれを成就できずに心中し、それを忍んで建てられた祠に願をかけるのが「縁結び」というパターンになっている。
桑崎分岐にある朽ちかけた案内図。分岐を左折して林道を行った先に桑崎という部落があったが廃村になった。好奇心に駆られたが時間の都合で断念。桑崎には分教場もあったという。ちょっと怖いけどいつか訪れてみたい。
川沿いの道を進む。
1970年頃、県道254号線が開通するまでは、人々は川沿いにあるこの道を歩いていた。未確認だが、おそらくこれが初期中山道だと思われる。
現在のJR中央線。初期中山道はその下を通過している。
中央線の廃トンネル。
国道19号線に出たら右折して1kmほど歩くと陸橋と右折路がある。ここで左脇の歩道を通って日出塩駅へ向かう。
陸橋の下を通る。
500メートルほど歩くと、道路右側にこんな標識が。
日出塩駅に到着。