木曽町から御嶽山へ向かう「御嶽古道」。このリンク先でも紹介している「行人橋歩道橋」が、御嶽古道の出発点だ。これを渡って左折し、木曽川右岸を下流に向かって歩き始める。
これが一般的なルートだと思い込んでいたのだが、この記事を最後まで読んでいただくと、実はルートがそれ一つではないことが分かる。時代によって信者さん達が歩くルートは変化していたのかもしれない。
民家の間を縫って一方通行の車道を 1km ほど歩くと、見えてくるのが広胖橋(こうはんばし)。民家が途切れると、こんなふうに木曽川が良く見える。川岸から離れて山道に入るのは、まだ 2km ほど先だ。
上の写真の場所から、広胖橋を渡って反対側から見るとこんな感じ。橋の銘板には「廣胖橋」と旧字体で書かれている。中島武が考案した有名な「RC ローゼ桁群」の一つ。木曽町内の上流に架かっている「大手橋(おおてばし)」と同じコンクリート・ローゼ橋だ。しかし広胖橋が架けられたのは昭和 31 年でずっと新しい。
下から見あげたアーチと桁の構造。このように桁とアーチの太さがほぼ同じタイプを「ローゼ桁」と呼ぶ。昭和 11 年に完成した大手橋の方は、2002 年に土木学会選奨土木遺産に選ばれている。
第二次大戦中、不足していた鉄材を節約するために中島技師が考案した鉄筋コンクリート製アーチ型の橋桁は画期的な発明だった。広胖橋は架設後 65 年経った今でも大型車の通行に十分な強度を維持している。
橋のたもとにある説明板。「長福寺の住職高安(こうあん)和尚が村人のために架けたのでこう呼ばれている」と書いてあるが、これだけでは何のことだか分からない。ちょっと興味が湧いたので、広胖橋の歴史を調べてみることにした。
実は、現在の鉄筋コンクリート製の広胖橋は三代目で、一代目と二代目の橋は 100 メートルほど下流にあった。今でも遺構が残っているので行ってみよう。
左岸をしばらく下流へ向かって歩き、広胖橋を振り返ってみる。大正 11 年に架けられた二代目の広胖橋はこの場所に架かっていた。
対岸には草木が茂っているが、よく見ると橋台の石垣が見える。その橋台の上に、住民が倉庫のようなプレハブの建造物を建ててしまっている。河川敷なので土地の所有権が曖昧なのかもしれない。
広胖橋をぐるりと回って対岸(御嶽古道側)に戻り、橋台の近くから対岸を見たところ。コンクリート階段の延長線上に道があり、それをそのまま真っ直ぐに進むと木曽福島駅へと向かう。
実は大正から昭和にかけて、木曽福島駅で下車して御嶽登山に向かう信者さん達は、わざわざ行人橋まで戻ることなく、この場所に架かっていた広胖橋を渡って真っ直ぐに御嶽に向かっていたのだ。この辺りにあった茶屋の関係者に伺ったところ、昭和期における登山者の多くが広胖橋を使っていたという。
江戸時代には、福島宿から行人橋を通過して木曽川右岸を進んでいた御嶽古道。しかし鉄道が普及すると、広胖橋を渡るルートに代わったと思われる。
さて最後に、広胖橋という由来が不明な名称について考えてみよう。一般には中国の戦国時代(紀元前 4~3 世紀)の思想書『大学』の一節に由来すると言われているが、ちょっと怪しい。
元の一節は、「富潤屋徳潤身 心広体胖」。
これを読み下すと、「富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く体胖かなり」となる。
この後半部分「心広体胖(こころひろくからだゆたかなり)」というところが広胖橋の由来だと言われているのだ。この心広体胖(しんこうたいはん)という四字熟語は、ある四字熟語辞典によれば「心が広く穏やかであれば、外見もゆったりと落ち着いて見える」という意味らしい。それを最初から橋の名称にするというのはちょっと考えにくい。
人の名前としての「広胖」には、最上広胖や六角広胖などの例があるが、川に架かる橋の名前としてはあまり例がない。少なくともネットで検索した限りでは、木曽町の広胖橋が唯一のようだ。
さて、ここで思い出して欲しいのが、橋のたもとにあった案内板だ。そうそう、確か「高安(こうあん)和尚が村人のために架けたので・・・」というくだりがあった。推察するに、はじめは長福寺の高安和尚に因んで単純に「高安橋(こうあんばし)」と呼ばれていたのかもしれない。それを誰かが思いつきで「広胖橋」と呼び始め、意味ありげで響きが良いので定着した。そんなふうに考えられないだろうか。