前回に引き続き、木曽路の中山道でも定番の峠越トレイルを歩く。ここ数年は、春秋にそれぞれ 2 回ずつ馬籠峠と鳥居峠を一人で歩いている。それにお客さんと一緒のツアーを加えると、この二つの峠だけで年間 10 回以上歩いている。それだけ歩いてもまったく飽きが来ないのは、季節によって微妙に表情が変わる峠道の魅力ゆえだろう。
中山道を歩く日本人のほぼ90%は、江戸から京都へ、つまり東から西へと歩いている。しかし欧米人はというと、ほとんど100%が逆方向に歩く。でも僕がツアーを企画するとき、歩く方向にはあまりこだわらない。歩いた後の満足感を優先して、宿場ごとに歩く方向を決めるのが良いと思う。
今回の出発点であるJR藪原駅。鳥居峠の場合、峠を越えて行き着く先に「奈良井千軒」と言われた天下の奈良井宿があるという点がポイントになる。現在の藪原宿と奈良井宿がどういう姿になっているかを比較すると、そこには近代の日本の歴史が色濃く反映されている。
明治時代以降、藪原(現在は木曽郡木祖村の藪原地区)は木材加工などの産業が盛んとなり、街もそれなりの発展を遂げた。藪原宿を国道が通過して江戸時代の町並みはすっかり姿を変えてしまった。現在ではほとんど宿場町の面影はなく、ちょっとレトロな昭和の町並みが続いている。一方、奈良井宿の場合は宿場町を国道が通過しなかった。特に産業のない街は寂れる一方だったが、昭和以降の観光産業によって救われた点は、妻籠宿とよく似ている。
これは宿場町の防火のために築かれた「高塀」の跡だ。所々にこうした江戸時代の遺構があって、歴史好きの人にとっては興味の対象となる。そのすぐ横に消防団の詰め所がある。中山道の宿場となって100年ほど経過した17世紀末に、街のほとんどを焼く大火災があった。この高塀は宿場のちょうど真ん中にあって、万が一、また大火災に襲われても、街半分の焼失は免れるだろうという希望の下に造られた施設だ。
町外れの高台にある藪原神社。1400 年ほど前の飛鳥時代(天武天皇の頃)に熊野神社から勧請された。静謐な凜とした空気が支配する境内は必見だ。
原町清水。山から引いている清水はいつも冷たくておいしい。峠を越える前の水分補給に最適な場所。僕はいつもコップにいっぱいの清水を飲んでから、持ってきた空のペットボトルをここで満タンにして行く。
登山口に入ると、こんな山道がしばらく続く。鳥や春ゼミの声が聞こえてウォーキングには最適なシーズンだ。ここはすでに標高が 1000 メートルを超えており、真夏でも空気はさわやかだ。峠道を何度も歩いていると気付くことがある。それぞれの峠で、南側と北側では緑の色合いや濃さが全く異なること。馬籠峠しかり、和田峠しかり、そして鳥居峠も例外ではない。生えている植物にそれほど違いはないと思うのだが、南側、つまり藪原側の森林の方が遥かに美しいのだ。地形なのか、気候なのか、原因は分からない。
次第に峠が近づいて林が明るくなってくる。
展望台の東屋から藪原市街を見下ろす。遠くまで木曽川に沿って続く山並みが、いわゆる「木曽谷」だ。「木曽谷らしい景観が良く見える場所はどこですか?」と尋ねられたら、僕は迷わずこの場所を推薦する。江戸時代の旅人も、同じ場所からこの風景を見て、人それぞれの感慨に浸ったことだろう。
丸山公園。ここでのお目当ては、芭蕉の句碑と正面にある大きな「古戦場碑」だ。詳しい解説版が設置されており、歴史好きの人はここでゆっくりと時間をとると良いだろう。ステキなテーブルがあるので、ここで挽き立てのコーヒーをドリップで淹れたら旨いだろうなと思う。
遙拝所へ向かう山道。この場所から遙拝所に上る近道もあるが、少し遠回りでもゆっくり登って正面の鳥居をくぐって遙拝所に入る方がおすすめ。
御嶽神社遙拝所の入口にある石の鳥居。奈良時代の昔からこの峠は「県坂(あがたざか)」と呼ばれていたが、15 世紀の初め頃、木曽谷を支配していた木曽義元が戦勝祈願のために鳥居を建てて以来「鳥居峠」と呼ばれるようになった。戦国時代末期の天正十年(1582 年)に、木曽義昌も武田軍との戦いに先立ってここで戦勝祈願をしたと伝えられる。年代ははっきりしないが、1500 年以前は鳥居峠以南は信濃ではなく、美濃に属していたらしい。良くも悪くも、木曽谷の人々は美濃と信濃の間にあって揉まれながら、狭い谷にしがみついて何とか生きてきたのだ。
遙拝所の奥には、御嶽信仰関連の石像や霊神碑群が見える。ここから御嶽山が望めるので、遙拝所として御嶽神社の重要な施設になっている。この遙拝所は修験道における「御嶽四門」のうち北門、つまり涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)の方向に設けられている。修験道が盛んになった鎌倉時代には、すでにここに鳥居や遙拝所があったのではないかと推察できるが、はっきりしたことは分からない。サンスクリット語のニルヴァーナは「悟り」とか「命が消える」ことを意味している。そのせいか鳥居峠の遙拝所周辺では、他の峠道では味わえない独特のスピリチュアルな雰囲気が辺りを支配している。
この日も、遙拝所脇の見晴台からは雪の残る御嶽山が良く見えた。江戸から中山道を歩いてくると、御嶽山が見えるのは和田峠とこの鳥居峠だけだ。10日以上かけて関東から歩いてきた信者達は、霊峰御嶽の輝く姿を見て、おぅと歓声を上げたことだろう。
御嶽信仰で重要な位置を占める摩利支天の石像。一日で千里を走ると言われる猪に乗っている。陽炎の化身と言われ、戦争の神でもあるので、鎌倉から戦国時代にかけて武将達に篤く信仰された。御嶽信仰でも重要な神様の一人。
この辺りには驚くほど大きな栃の木が群生しており、自然観察の場としても重要。藪原名物の「お六櫛(おろくぐし)」の材料となるミネバリの木も見ることができる。
鳥居峠の中山道最高地点。長い間、標高1197メートルと書かれた標識が木に結びつけられているだけの状態だったが、2年前に新しい石柱が設置された。ここはそれぞれ太平洋と日本海に向かって流れる、木曽川と奈良井川の分水嶺でもあり、現在では木曽郡と塩尻市との境界にもなっている。
しっかりした造りの休憩所。中に入って休むことができ、水洗トイレも完備している。ここで一服して、遠目にこれから行く奈良井宿を眺めてみよう。
奈良井宿への下りでは、所々にこうした石畳の道があって楽しめる。
ヤブジラミの白い花が目に眩しい。この時期、峠の奈良井側ではこの野草の大群落が見られる。藪虱(やぶじらみ)という和名の由来は、種子に釣り針のようなトゲがあって通る人の衣服にくっつく様子をシラミに例えたもの。名前とは裏腹に、五弁の花も葉の形も美しい。
奈良井宿の入口にある鎮神社(しずめじんじゃ)。江戸時代初期に奈良井宿で流行した疫病の退散を願って建てられたのが始まりとされる。コロナ禍退散にも効果があるかもしれないので、ぼくはここを通る度に参拝している。
しずめ神社の境内から奈良井宿の上町(かんまち)方面を眺める。ここから「鍵の手」と呼ばれる分岐までが上町で、主として問屋などが並ぶ商業地区だった。
中村家住宅。ここから奈良井宿の保存活動が始まった、奈良井宿全体でも特に重要な施設。有料の歴史資料館になっていて、係の人が案内をしてくれる。出張造り、袖卯建、猿頭など、当時の一般的な消火の特徴をすべて備えている。
中村家住宅の袖卯建(そでうだつ)を見ると、木材が焼け焦げているのが分かる。焦げてはいるが、焼け落ちずに建物を守ったのだ。この構造が防火に有効であることが分かる重要な物証だ。
中町(なかまち)にある長泉寺本堂。寺の背後に鬱蒼とした森が広がり、独特の雰囲気を醸し出している。庭園もなかなか見事。静かで雰囲気が良いので、ぼくは奈良井へ来ると必ずここに立ち寄る。本堂の前扉が開け放しになっていて、中に入ると龍の天井絵を見ることができる。
拍手すると、それに反応して龍の目に施した細工が音を発していたという天井絵。今ではその音は聞こえなくなってしまったが、天井絵自体は素晴らしい迫力を維持している。
この日は、中町にある「かなめや」さんで雑炊のランチをいただく。
ご主人は、ほぼ廃屋になっていたこの建物を見て、柱などの部材が太くてしっかりしているのに惚れ込み、コツコツと一人で改修してこの店を開いたという。囲炉裏をはじめとして一つひとつの備品にご主人がこめた思いが感じられ、ついつい見とれてしまう。
小鉢の付いた雑炊ランチ。雑炊を食べ終わる頃に、五平餅とコーヒーが出てくる。旧家の調度を見ながらゆっくり食事ができて、さらにコーヒーまでいただけるというお得なランチセットだ。
これが奈良井風の五平餅。五平餅は、それぞれの宿場によって形が実に様々。本来は「御幣」の字を当てるので平べったい餅を串に刺してあるのが一般的だが、奈良井の五平餅はそれを平然と無視して、こんな風に二つの餅に甘いごまだれをタップリと掛けてある。妻籠以南では、串に刺して焼いた餅にタレを付け、さらに炙るのが一般的なので、それから見ると「邪道」と言われかねないが、とにかくおいしければ構わないと思う。時間があれば、五平餅づくりの体験コースもある(1650 円)。
中町地区の様子。上町(問屋街)や下町(職人街)に比べると、中町は通りの幅が二倍ほどもあって広々としている。ここが宿場の中心部で、旅籠や酒屋、本陣、脇本陣などが軒を連ねていた。
中町にあった酒蔵「杉の森」の軒下。この酒蔵は廃業して現在は宿泊施設になっているが、杉玉は見事な形を維持している。
中町通りから見える火の見櫓。もちろん当時の建物ではないが、この鉄骨建造物には「全員で火災を防ごう」という奈良井の人々の思い入れが凝集しているように見える。江戸時代この方、すべて木造の建物が1キロメートル以上も連なったこの街では、火災が最大の懸案事項だった。
街のあちこちによく見られる木製の箱。これは現在も使用できる消防設備だ。
中を開けるとこんな風に消防ホースが収納してある。ホースやノズルがとても細いのが特徴。商売や職人仕事で旅に出ることが多かった男達に代わり、女性達が主体となって消防団を組織していたので、女性でも扱いやすいように器具も小型のものを使用している。
下町(しもまち)の様子。中町に比べると道幅がぐっと狭くなっている。この辺りには、今でも曲げ物の工房などが何件も見られ、職人街だった昔の雰囲気が色濃く残っている。
JR 奈良井駅。ちょうど白い藤の花が満開だった。
宿場町から少し外れたところ、奈良井駅の近くにある八幡神社前の杉並木。江戸時代の中山道は、実は現在の奈良井駅の前を通っている車道より少し山側の高台の上を通っていた。この杉並木が旧中山道だ。
杉並木が途切れる辺りにお堂があり、仏像がたくさん並んでいる。通称「二百地蔵」と呼ばれているが、よく見るとほとんどが観音様だ。
さて、今回ぼくが企画したツアーでは、奈良井宿からさらに 2km ほど歩いた所にある漆器の街「木曽平沢」が最終目的地になる。薮原から奈良井までだと、一日の行程としては少し距離が足りないこともあるが、平沢の漆器街を見ることで江戸時代の木曽の暮らしについて、もっと深く考えさせされるというメリットもある。
平沢漆器街の中ほどにある「ちきりや」。正式名は手塚万右衛門漆器店。古い道具や漆器などの展示物が充実しており、ご主人が木曽漆器の歴史を分かりやすく説明してくれる。
これは木曽春慶塗の三十におよぶ行程が見られる展示。さらに、春慶塗から出発した木曽漆器が、幾層もの漆によりまだら模様を表わす「堆朱」や幾何学模様のような「塗り分け呂色塗」へと発展して行く過程も見ることができる。下のフォトギャラリーにも一部の作品を掲載している。