鳥居峠と七夕の奈良井宿(Toriitoge Pass & Narai-juku)

 鳥居峠を歩くのは、今年の春からすでに三回目。木曽路では定番の峠歩きトレイルだが、何度歩いても新しい発見があって楽しい山道だ。こうしたリピート機会の多いトレイルでは、その度に何かテーマを決めて歩くことにしている。今回のテーマは、神社、特に鳥居峠の頂上近くにある御嶽神社の遙拝所と、奈良井宿の鎮神社(しずめじんじゃ)。

 おなじみの JR 藪原駅。中山道を歩く人にとって、鉄道の駅が宿場町の近くにあることは大きなポイントになる。人気のコースとして、琵琶峠、馬籠峠、与川道、鳥居峠などがあるが、駅からのアクセスの便利さという点では鳥居峠が随一だ。

 藪原駅には、清潔な水洗トイレ、無料の駐車場、分かりやすい案内板など、必要な物がすべて揃っている。中山道の中でも「最も旅人に優しい鉄道駅」と言って良いだろう。

 薮原神社。中山道からちょっと外れるので、立ち寄るウォーカーはあまり多くない。斜面に沿って登って行く建物の配置が独特で、落ち着いた雰囲気の神社だ。天武天皇の時代からこの地にあったと言うから 1300 年以上前になる。明治以前には熊野社、熊野大権現などと呼ばれていた。

 境内への入口。隅々まで掃き清められていてすがすがしい。

 一段高いところにある拝殿まで登る階段。

 薮原神社に隣接している、法城山「極楽寺」の本堂。

 住宅街を通る坂道の途中に、こんな分岐の標柱がある。左折すると、境峠、野麦峠を経て、飛騨高山に抜ける「旧野麦街道」へと進む。女工哀史で有名な女工さん達もここを通ったらしい。この街道は、江戸初期に中山道が整備される前からあった古道だ。

 分岐から藪原宿方向を振り返る。左側に分岐の標柱が見えている。旧野麦街道へは、右手に見えている木箱の前を通って鉄道線路方向に下って行く。街道は鉄道線路で切れているので、跨線橋を渡ることになる。

 町外れの分岐。ここからが峠の山道だ。標識が巨大な案内板の陰に隠れているので、初めての人はうっかりすると右の車道へ進んでしまうが、しばらくすると合流するので問題は無い。

 この日は、時折小雨がパラつく天気だった。涼しい森の道を上って行く。

 久しぶりに展望台に寄ってみた。

 展望台から見た薮原の中心部。雨で煙っている。

 丸山公園。多くのウォーカーがここには寄らずに通り過ぎる。しかし史跡としては重要な場所なので是非見て欲しい場所の一つ。記念碑や歌碑などが並んでいて、奥に見える縦長の石碑が注目の「古戦場碑」だ。

 古戦場碑。天正10年(1582年)に甲斐の武田軍と木曽氏がこの峠で戦った。その時の顛末がびっしり書き込まれている。

 歌碑の説明も併せて読むと興味深い。奈良井の「葬り沢」という記述がある。ちょっと不気味な名前だが、しばらく後にその場所を見ることになる。

 夏草や兵どもが・・・、の句を思い浮かべながら見渡すと目に入ってきたギボウシ。名前の由来は、手すりや欄干に設けられているタマネギのような形の「擬宝珠(ぎぼうしゅ)」に似ているから。木曽では春先の若葉を「うりっぱ(またはウルイ)」と呼んで食用にする。お浸しにすると、少しぬめりがあってとてもおいしい。

 遙拝所に到着。江戸から京都に向かって中山道を歩くとき、最初に木曽御嶽を見ることができるのがこの峠だ。ちなみに、木曽路十一宿で中山道から御嶽が見えるのは、この鳥居峠と福島宿の神戸遙拝所のみ。

 それまで都と東国を結ぶ「東山道」は、現在の中津川から飯田方面へと抜けていたが、八世紀の初め頃になってこの峠を通る吉蘇路(きそじ)が開通し、後の中山道となった。当然ながら峠もその頃から存在しており、当時は「懸坂(あがたざか)」と呼ばれていた。

 明応年間(1495 年頃)、木曾義元がこの頂上に鳥居を立て、御嶽権現に戦勝を祈願したところ松本の小笠原氏との戦いに勝ったので「鳥居峠」と呼ばれるようになったという伝説がある。

 この日はあいにく曇り空だったので、六月に同じ場所から撮影した御嶽の写真を載せておく。まだ雪で真っ白。中央に見えているのが最高地点の「剣ヶ峰」だ。御嶽山を望める場所に、御嶽大神や霊神碑等が奉られている。

 後列。左端が三笠山刀利天、中央が摩利支天像、右端が御嶽座王大権現。

 前列。一心行者の石像が中央に配置されていて、右側の石塔には「開闢普寬大菩薩」と彫られている。普寬行者が、仏教の階位では菩薩になっているのだ。つまりこの遙拝所は、普寬行者の後継者である一心行者を信奉する講が管理していることが分かる。

 摩利支天像。阿修羅像と同じく三面六臂(顔が三つに手が六本)の姿だ。摩利支天(まりしてん)とはサンスクリット語の Marici(マーリーチー)に漢字を当てたもので、「陽炎(かげろう)」という意味だという。陽炎のように捉えどころがなく、猪に乗って素早く移動する神様だ。つまり傷つかない神様なので、戦場で危険にさらされる武士の間で古くから信仰されていた。この遙拝所は戦勝祈願が目的で建てられた施設だ。闘いの神である摩利支天が中央に置かれているのも頷ける。

 遙拝所への参道と峠道の交差する場所は広場になっている。この広場に面して草むらの中に置かれているのがこの石仏。右手に剣、左手に薬壺を持っているので、御嶽三大神の一人である八海山提頭羅神王(はっかいさんだいずらしんのう)だと思われる。そう言えば遙拝所にはこの神様がおられなかった。

 遙拝所から峠までの間には、大きなトチノキがたくさん自生している。

 子宝に恵まれるという言い伝えのある「子産みの栃」。説明板によると、この穴に捨てられていた赤子を育てた人が幸せになったことから、この木の皮を煎じて飲むと子宝に恵まれるという言い伝えが発生したらしい。

 こんな分岐に出る。五本の道が集まる辻だ。これを右折して切り通し(車道)を進むと、本来の中山道の鳥居峠(最高地点)を通らずに、奈良井宿へ下ってしまう。

 右側に見えているのが、今歩いてきた遙拝所からの山道。分岐まで来たら、Uターンして左側のコンクリート道を上って行こう。これが峠を通る中山道だ。

 ここまで来たら標識にしたがって山道に入る。

 ここが鳥居峠の最高地点(1197m)だ。

 令和元年十月に設置されたばかりの新しい峠の石柱。

 最高地点の前後はこんな細い山道だ。大名行列もここを通過したのだから、江戸時代には道幅がもっと広かったに違いない。

 峰の茶屋跡にある休憩所。飲用となるきれいな水が出ていて、トイレも完備している。

 茶屋跡の東屋。老朽化していて暗いので、立ち寄る人は少ない。葬り沢(ほうむりさわ)の説明板がある。夜中に一人で通るのはちょっと怖いかもしれない。

 これがその「葬り沢」だ。木曽義昌に敗れた武田軍兵士の屍がこの沢を埋め尽くしていたという。

 峠道を下って来ると、奈良井の宿場町に入る手前、左側にあるのがこの「鎮神社(しずめじんじゃ)」だ。本殿は 1664 年に建造されたもの。疫病を鎮めるため、元和年間に下総国香取神社を勧請したのでこう呼ばれるようになった。先日、この境内で出会った初老の女性が「コロナ退散のために毎日お参りしているのよ」と言っていた。

 奈良井宿の町並み。

 いつもセンスの良いディスプレイで我々の目を楽しませてくれる喫茶店「いずみや」さん。

 宿場町の中は、こんなバスが走っている。

 木曽地方では一月遅れの八月七日に七夕祭りを行う。この日はちょうど七夕。

 七夕の風景。下町では七夕の飾りが一層賑やかだ。

 国道 19 号沿いにある道の駅から見た奈良井大橋と奈良井宿の看板。

 木曽大橋の欄干で、今年初めて出会ったアキアカネ。梅雨が異常に長かったので、今年の秋はどれくらい見られるか心配だ。二年前に書いた記事「秋津、蜻蛉、赤とんぼ」。

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