水月湖の奇跡 – その2

 水月湖シリーズの二回目。今回はなぜ湖底に縞模様(年縞)ができるのかを簡単に説明する。年縞のでき方を知ることで、過去に起きた気候変動をより客観的に見ることができる。それにより、政治やビジネスに起因した雑音に惑わされることなく、地球環境の変化について考えを深められるんじゃないかと僕は考える。時を刻む水月湖のように、静かにじっくりと。

 まず、木の年輪を考えてみよう。あのバウムクーヘン模様は、季節の区別があるからできる。寒い季節には木の生長速度が低下するので色が濃くなり、逆に暖かくなると木が急激に生長するので色が薄くなる。だから、年間を通して温度が一定の場所、たとえば熱帯雨林では木材に年輪ができない。日本のように寒暖差のはっきりとした四季のある場所だから、木材に年輪ができる。湖底に積もる堆積物に縞模様が形成されるのも、季節の温度差が原因だ。

 具体的に見てみよう。寒い時期から梅雨にかけては、周りの河川から流れ込んだ泥が層を作るので湖底の堆積物は比較的濃い色になる。しかし夏にはプランクトンや珪藻などが大量に発生し、その死骸が沈んで淡色の層を作る。さらに秋には、落ち葉をそのままの形で含む層ができることもある。その結果、一年で一層ずつ、バーコードのような縞模様が形成される。一年分の厚さは1mmに満たないごく薄いものだが、水月湖ではこれがなんと70メートル以上も連続して降り積もっているので、単純計算でも7万年分だ。

 こうした年縞は、海底や湖底ならどこでもできそうな気がするが、実はそれほど簡単ではない。まず、堆積物が静かに降り積もるためには、湖底が無酸素状態でなければならない。無酸素状態ではゴカイや魚などの生物が活動できないので、撹拌されることなく堆積物が溜まるからだ。

 ではどうすれば湖底が無酸素状態に保たれるのか。これがなかなか難しい。湖底が深くて水温が低く、さらに強風や温度差によって水面近くの水が深部の水と入れ替わることのない特殊な環境が求められるのだ。しかも、湖底が一定以上に深い状態が何万年も維持されなくてはならない。堆積物によって湖底がだんだん浅くなると生物が住める環境になり、堆積物が撹拌されてしまうからだ。

 風や嵐による土砂の流入などがほとんどない湖。湖底が無酸素状態となるために十分な深さを持った湖。湖底にどんどん堆積物が溜まっても浅くならない湖。ひっそりと、数万年にわたって、宝物のように守られた湖。それが水月湖だ。

 なぜ日本のような地殻変動の激しい地震国にそんな貴重な湖が存在しているのだろう。実は水月湖の水深には、その地殻変動が大きく関わっている。三方五湖の東側には、太平洋プレートの沈み込みに起因する三方断層という活断層が南北に走っている。この断層の西、つまり水月湖のある側が毎年ほぼ1mmの割合で沈降しているのだ。その結果、今でも水月湖の水深は少しずつ深くなっている。だから、いくら堆積物が降り積もっても湖底は無酸素状態のままなのだ。

 さて、そんなに貴重な水月湖底の堆積物を最初に発見したのは、環境考古学者の安田喜憲である。1991年のことだった。しかし最終的に水月湖の年縞が世界標準として認定されるまでには、二十年以上の歳月と大変な努力を必要とした。この間の事情は『時を刻む湖』(中川毅著、岩波科学ライブラリー)に詳しい。夢を追う科学者の壮絶な闘いが胸を打つ好著。是非一読をお勧めしたい。僕が映画監督だったら、このストーリーを迷わず映画化しているだろう。

 湖底の堆積物を掘削するボーリングの様子。地道な掘削作業と、その後に待っている根気が勝負の解析作業。派手な宇宙開発や分子生物学などと違って、研究に必要な予算が日本ではなかなか付かない。ドイツやイギリスの研究者も巻き込んで、ようやくその価値が世界に認められた。

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