義仲館で木曾義仲の何が分かるか

 今年(2021年)の7月にアップした記事 義仲館がリニューアルオープン! では、パッと見ただけの印象をレポートしただけで、展示の意図については不明部分が多かった。全体的にそれほど鮮明な印象を受けなかったので、遠くから来てくださるお客様の反応も含めて、義仲館のことがずっと気になっていた。

 そんな師走のある日、「義仲館で勉強会が催される」との連絡を受けた。期待半分で出かけたのだが、今回は予想に反して大きな収穫があった。展示の監修をされた西川かおり先生から、義仲と巴への思い入れや各地に残る伝承などについて直接詳しいお話を伺うことができ、図らずも「目からうろこ」の体験となった。

 入口を入ると、右手奥の方に大きな油彩の合戦画が展示されている。木曾義仲と今井兼平の主従関係を描いた田村佳丈(たむらよしたけ)氏の油彩画で、タイトルは「木曾最期」。主君の義仲が敵に討たれるのを見た兼平が、自らも刀を口にくわえて自刃する光景を描いたものだ。西川さんは、学生時代に平家物語のこの部分を読んで深い感銘を受け、それ以来ずっと義仲の研究を続けてこられたという。

 上の画面右端を拡大したところ。甲冑を見せて後ろ向きになっているのが兼平。
『平家物語』の「木曾殿最期」の段は次のように記述されている(以下引用)。
  – 義仲が討たれると、「今は誰をかかばはんとて、軍をばすべき。これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ(いまは誰をかばうために戦をすべきであろうか。東国の武士どもよ、これを見よ。日本一の剛の者の自害の仕方よ)」と言い、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。 –
 木曾義仲四天王の中でも特に義仲の信頼が厚かった今井兼平の最期だ。ちなみに、最後の七騎になるまで義仲と行動を共にしていた巴は、義仲の指示にしたがって落ち延びたと言われる。

「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌(さてつ)の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。」

 これも展示の一部で、芥川龍之介の『木曾義仲論』という論文からの抜粋である。芥川龍之介が義仲の大ファンだったということも今回の勉強会で初めて知った。
 以下は、義仲館に展示されている論文の一部:
「彼は彼が熱望せる功名よりも、更に深く彼の臣下を愛せし也。」
「三たび云ふ、彼は真に熱情の人也。」
「彼は自由の寵児也。彼は情熱の愛児也。而して彼は革命の健児也。」
「彼の三十一年の生涯は是の如くにして始めて光栄あり、意義あり、雄大あり、生命ありと云ふべし。」

 義仲が「情に厚い、男らしい男」だったことがシンプルかつ美しく顕された展示だと言える。

 もう一人の「義仲ファン」は松尾芭蕉だ。芭蕉は、奥の細道の旅の終りに「かつて木曾が破竹の勢を以て京を進撃した昔を回想し」多くの句を残している。また木曾に関わる句も多い。そして臨終に当たって芭蕉は「骸は木曽塚に送るべし」との遺言を残したので、実際に京都の義仲寺(ぎちゅうじ)では義仲の墓に隣接して芭蕉の墓が立てられている。

 さて、こうした文豪や俳句の聖のことばを聞かずとも、長野県に住むぼくらの大多数は、木曽義仲を「郷土の英雄」として誇りに思っている。県歌『信濃の国』にも「旭将軍義仲も・・・」と歌われている。また、義仲に関する伝承も長野県内だけで 250 箇所、全国では 600 箇所にも上っている。

 そうした伝承のほとんどすべてが、義仲の優しさ、思いやりある行動などを今に伝えるもので、それらが今も連綿と伝えられていること自体、当時の人々の義仲を慕う気持ちを表している。人格者としての義仲の姿がはっきりと浮かび上がってくる。

 以下は『平家物語』の口語訳からの義仲の言葉の引用:
「平清盛が政治を思うままにして世が乱れました。私は源氏の血を受け継ぐものとして、見過ごすことはできず、小さな力ですが兵を挙げました。それは、赤子が海で海を図ろうとするほど小さく、カマキリが車と戦おうと斧を振り上げるような、笑いものになるほど愚かなことかもしれません。
しかし私は戦います。己のためではなく、人々のため、秩序のために(平家物語より)」
 この部分には、義仲の人となりがよく現れていると思う。平家物語の歴史資料としての信憑性や価値について疑問を挟む専門家もいるが、数々の伝承から浮かび上がる義仲のイメージと整合性の高い台詞だと私には思える。

 ところが、世間一般の木曽義仲に対する印象はというと、これが芳しくないのは我々もも良く知っている事実。確かに義仲は逆賊の汚名を着せられて討ち死にしてはいるが、それなら義経だって、明智光秀だって、さらに西郷隆盛だって、その点では大差ない。なぜ義仲だけがそんなに世間で不人気なのか。ハンサムじゃなかったから? 果たしてそうだろうか。

 実は『平家物語』には義仲の容姿について「見目良き男・・・」という記述がある。それなのに世間一般のイメージは・・・「好色で、髭もじゃで、粗野な暴れん坊」・・・えぇ?!
 このギャップの原因は何だろうか?

 ぼくは今まで、こうした義仲にとって理不尽な状況の原因はすべて『平家物語』そのものにあるのだと思い込んでいた。自分自身が『平家物語』を通読していなかったことも問題だったと思う。12 月 15 日の勉強会では、その点にも触れられていて、だんだんと真相が見えてきた。確かに『平家物語』の中では、「人格者である義仲」が滅ぶためには理由が必要だった。そこで、京での失態をことさらに強調することになったのだろう。つまり、『平家物語』を全体としてみた場合、それは義仲の評価が低いことの説明にはならないのだ。

 だとすると、世間一般の義仲に対する不当にネガティブなイメージの原因は何なのか?
 その答えはズバリ!吉川英治の『新・平家物語』に描かれている義仲の姿だ。

 これは文庫本で 16 巻におよぶ大作で、1950 年代に週刊朝日に連載された作品。これはもちろん歴史書ではなくて大衆小説なので、話をおもしろくするために登場人物をデフォルメし、キャラが立つように強調して描かれている。この作品の中で、前述のように「好色で、髭もじゃで、粗野な暴れん坊」という義仲のイメージが植え付けられてしまった。

 なにしろ義仲がこの作品の中で最初に登場するのが、自分の妻でもない複数の女性と一緒に風呂に入っているシーンなのだ。しかもこの作品は読みやすくて面白かったので絶大な人気を博し、映画化され、人形劇やマンガになり、さらに大河ドラマにもなって日本中に義仲のネガティブなイメージがしっかりと定着した。木曽義仲を愛する多くの人々にとって、とても受け入れられない酷い状況になってしまったのだ。

 リニューアルオープンした新しい「義仲館」は、こうした状況に一石を投じるために、そして『新・平家物語』によって定着した義仲のイメージを払拭し、木曽だけでなく日本各地で今でも慕われている義仲の真の姿を世間に知ってもらうための施設になることが期待される。

 このように、数ヶ月前のリニューアルオープン当時に展示を見た際には気付かなかったことが、今回の勉強会では西川かおりさんの解説によってよく理解できた。
 しかし残念ながら、展示されている伝承マップや、大作の油絵「木曽最期」のストーリー、そして入館してすぐに目に入る芥川龍之介の文章など、ちゃんと説明してもらわないと分からないことがかなり多い。現状の展示を案内無しでただ見ただけでは、それぞれの展示の狙いや義仲のイメージが訪問者に伝わってこない。展示方法やスタッフの対応を含めて、もう少し工夫が欲しいところだ。

 さて、このように不当に真実とは違うイメージをもたれている義仲なので、「木曾義仲の復権」を目指すプロジェクトが各地で盛り上がっている。具体的には、義仲生誕の地である埼玉県、倶利伽羅峠などの戦いが行われた富山県、義仲が最期を迎えた滋賀県など。

 しかし木曽義仲が成長して旗挙げまでを過ごしたぼくらの木曽町ではどうだろうか? 復権プロジェクトがそれほど盛り上がっているとは言えない。義仲館を起点として木曽からも何らかのムーブメントを起こしたいものだと痛切に感じた。

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