「ずく」について考える

 信州人であれば普通に使う「ずく」という言葉がある。この言葉、意味を説明するのがかなり難しい。僕のような昭和三十年代生まれはごく普通に使う言葉だが、最近の若い人たちはどうなのだろうか。例えばサッカークラブの練習などで、中学生が「今日はかったるくて、ずくが出ねぇ。」なんて言うだろか。

 「そんな言葉は聞いたことがない」という読者のために、簡単に使い方を説明しよう。まず代表的なのは「ずくを出す」という使い方。サッカー少年が「ずくが出ねえ」と言えば、それはヨシッというやる気が湧かない状態を言う。ちなみに、信州の代表的な民放であるSBC(信越放送)には「ずくだせテレビ」という午後のローカルワイド番組がある。

 もう一つの使い方として「ずく無し」というのがある。これは人間の気質を表現する言葉で、怠け者や、物事を億劫がってなかなかやらない人のことをこう呼ぶ。「腰が重い」とか「面倒くさがり」などに近いかもしれない。


“怠け者の天国”ピーデル・ブリューゲル画(1567)

 もう一つ、「ずく無し」に近い言葉として「ものぐさ」がある。実はあの有名な「ものぐさ太郎」という民話は長野県松本市に伝わっていたものだ。ものぐさ太郎は、目の前の地面に落ちた餅を拾うのも面倒くさがるような「半端ない怠け者」だったが、後に働き者になって素晴らしい女性と結婚し、成功して120歳まで長生きしたという。

 長野県人というと、勤勉で真面目、勉強家、(さらには理屈っぽい)といったイメージがあるようだ。だから信州では昔から「ずくなし」や「ものぐさ」が嫌われていて、若者を戒めるために頻繁に使われるようになったのかもしれない。

 さてここで、以上の各例の考察から「ずく」という言葉の意味を僕なりにまとめてみよう(って大袈裟だけど)。それはつまり、人が意識的に振り絞る「気力」、あるいは自然に湧いてくる根気や勤勉さのようなものだ。そして重要なのは、「ずくがある人」か、または「ずくなし」なのかは、自分で決めるのではなくて他人の評価によって決まるという点だ。

 ここで告白しなければならないのだが、僕は小学生の頃、母親に「あんたはずくなしだねぇ」と言われたことがあった。そう言われたとき、確かに自分には勤勉さが足りないな、と妙に納得してしまった。その時点で奮起すれば良かったのかもしれないが、僕には奮起するために必要な「ずく」が足りなかったのかもしれない。もっと言えば、闘争心や競争心、あるいは向上心に欠けていた。

 世界中のみんなが僕みたいだったら、おそらく人類に進歩はなかっただろう。発明したのはせいぜい石器ぐらいで、お腹がすくと、うさぎや野ねずみや木の実などを食べて暮らしていただろう。そしてある大寒波の年に、ひとたまりもなく凍え死んでいただろう。しかしその一方で、闘争心や競争心に乏しい人ばかりだったら世の中はもっと平和なのに、などと思ってしまうのだ。

 スポーツでも学問でも、あるいは政治や商売でも、成功する人は総じて負けず嫌いの人が多い。さらに言えば、そうした負けず嫌いな人々、つまり「ずくのある」人々が繰り広げる競争、努力、闘争、奮起、探求、工夫、その他諸々によって、人類はここまで成功した。そして地球という惑星を支配するまでになった。本当は支配なんかしていないが、多くの人間はそう思っている。

 使えもしない核兵器をわんさと抱え、相手を威嚇することが抑止力だと思っている人類。悲惨な戦争を何度も経験して「もう戦争はこりごりだ」と思っても、またやってしまう人類。人類って、本当に成功しているんだろうか。もし人類が全員「ずくなし」だったら、戦争なんてないのかもしれない。

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