美濃地方を通過する中山道の中でも、岐阜県可児郡御嵩町にある御嶽宿から、細久手宿、大湫宿を経て、大井宿(現在の恵那市)に至る区間は、多くの場所で江戸時代の街道がそのまま残っている。「十三峠おまけに七つ」と言われるほど上り下りが続き、主として山間地の集落を縫って中山道が走る。
通過するそれぞれの宿場には、他にはない見どころや魅力がある。まず御嵩町の山の中には、その名も「ラ・プロヴァンス」という森のケーキ屋さんがあって女性に大人気。また細久手宿には、この区間でただ一つ宿泊が可能な料理旅館の「大黒屋」がある。
御嵩駅。町名も駅名も「御嵩」だが、宿場名には「御嶽」の字を当てる。どちらも「みたけ」と読むので紛らわしい。
宿場の様子が一目でわかる看板。
中山道の標識。この標識さえしっかり確認していれば、所々で重複する「東海自然歩道」との混同を避けることができる。全体として、美濃の中山道標識は木曽のものよりも統一感がある。
牛の鼻欠け坂。大きな荷物を背中に積んで登ってくるので、牛の鼻が地面に擦れて欠けてしまうほどの急坂だったことから名付けられたという。道はかなり改善されていて、現在ではそれほどの急坂ではない。
名所案内標識はほぼこのパターン。次の名所までの目安になるが、中山道や東海遊歩道の標識と混同しやすく紛らわしい。さらに中山道から外れた場所を示す標識もあるので(例えば武並など)、注意が必要だ。
両隣の宿場までの距離が書かれた石柱道標。このタイプはとても珍しい。
謡坂(うとうざか)の石畳。上り坂が急だったため、旅人が歌を謡って苦しさを紛らわせたことから、うたい坂と呼ばれたのが名前の由来だという。昔から御嶽宿から大井宿までは、上り下りの激しい難所(十三峠)だった。実際に坂に因んだ地名が多い。
浮世絵コーナー – 御嶽宿
御嶽宿の木賃宿。旅人が峠の山道にあるこの店で一休みしたのだろう。広重の描いた中山道の浮世絵は、江戸から京都に向かう路程を基準としている。したがって宿場の東側(江戸に近い方)にある場所をモチーフにしている場合がほとんどだ。
十本木立場。この場所が上の作品のモチーフだとされる。美濃地方の中山道では、各宿場ごとにこのような浮世絵の説明看板があって楽しめる。
さて、いよいよ森のケーキ屋さん「ラ・プロヴァンス」に到着。和宮が降嫁された折に造られた御殿場跡のすぐそばにある。この店の名前を付けたバス停があることからも、人気の程がうかがえる。冬のこんな時期でも、遠くから訪れる女性客で店がいっぱいになる。
素敵な入口。春にはバラの香りがあたりに拡がるに違いない。江戸時代そのままのような中山道の中で、ここだけは全く別の空間。
ラ・プロヴァンス(La Province)フォトギャラリー
バラなどがきれいに配置された庭。春には素晴らしい光景になることだろう。上のフォトギャラリーでは店内やケーキを見ることができる。ギャラリーで紹介しているガラス工房「三日月」のウェブサイトは こちら 。
ラ・プロヴァンスを出ると、街道の向かい側(北側)に御殿場の展望台がある。
この階段を上ると東屋があって眺望が良い。天気が良ければ木曽御嶽山も見えるらしいがこの日は残念ながら曇り。この峠一帯は道幅が広くて日当たりも良く、なだらかで楽に歩ける山道がしばらく続く。
鴨之巣一里塚。美濃地方の中山道は、明治になって開発の波から取り残されたため、江戸時代の一里塚がそのまま保存されている。貴重な歴史遺産だ。
時々こんな風に車道に出る。細久手宿まであと2キロあまり。
宿場の西に小さな峠があり、その急坂を下ったところにある「細久手宿の穴観音」。
細久手宿を西から見た風景。江戸末期には旅籠が24軒もあったという。自動車の普及によって国道が離れた場所に新設され、江戸時代の細久手宿は明治になって廃れてしまった。ところが近くに亜炭が出たため、炭鉱労働者のための宿屋が何軒か残った。しかし亜炭の需要がなくなるにつれて、再び細久手宿は時代に取り残された山里になる。現在営業している旅館は「大黒屋」一軒のみ。歴史に翻弄されて盛衰を繰り返した細久手宿だ。
細久手宿の中ほどにある料理旅館「大黒屋」。最近はウォーキング好きの外国人に人気の宿として有名だが、地元住民にとってはこの辺りで唯一の料理店としての役割も担っている。昼の会食、夜の宴会などで利用されることも多い。建物は築160年でかなり老朽化しているが、あえて手を加えずに趣を大切にしている。
気さくで親切なご主人と料理上手で笑顔が素敵な女将さん。どんなに忙しくても、掃除から食材の仕入れ、手の込んだ料理、さらには外国からメールで入ってくる英語での予約管理まで、仕事はすべてご夫婦だけでやりきってしまう。料理には地元の食材を使い、すべて手作りだ。ギャラリーで、この日ぼくがいただいた料理を見ることができる。
大黒屋 フォトギャラリー(Daikokuya Photo Gallery)
見ての通り、肉料理は全くない。奇をてらった飾り付けもしない。味付けもほんのりとまろやかで、鯉の煮付けをゆっくりと味わっているうちに、亡くなったお袋を思い出して涙が出そうになった。旅館の夕食を食べてこんな気分になったのは初めてのこと。自分でもなぜだかわからない。
浮世絵コーナー – 中山道と歌川広重
広重の『木曽海道六十九次』というシリーズについて。なぜ「中山道」でも「木曽街道」でもなく、木曽「海道」なのか。それは人気の高かった『東海道五拾三次』に続くシリーズものとして制作されたから。浮世絵は芸術作品というよりも大衆向けの「売れる」商品だったので、一般大衆に受けなければ意味がなかったのだ。
これが広重の描いた細久手宿だ。中山道の宿場が定められたのは慶長6年(1601年)だが、細久手宿が造られたのはその10年ほど後のこと。東隣の大湫宿と西隣の御嶽宿の間が4里半(約18km)と遠かったため、後から追加された宿場だ。
宿場から東に抜けて行く坂道。この辺りが広重の絵のモデルだと思われる。さて、ここから大湫宿を経て大井宿までの道程は、美濃地方の中山道の中でも最難関だ。数日中に記事を書く予定。