2019年3月19日 塩尻 – 早春の平出遺跡

 塩尻はいろいろな意味で「境界」の街だ。「塩尻」という名前からして「塩の道の尻」のことで、海で採れた塩を運ぶ街道の終着点という意味になる。まず日本海側からは、千国街道が糸魚川を出発して大町・松本を経由して塩尻に至る。直江津を出発した北国街道の終点も塩尻だ。


画像:Wikipedia

 太平洋側から見ると、まず三州街道が岡崎を出発点として塩尻が終着となる。以前、魅力いっぱいの大鹿村(その二)でも触れた秋葉街道も、御前崎を出発して中央構造線に沿って北上し、諏訪を経由して塩尻に至る。そんな風に昔から交通の要衝だった中山道の「塩尻宿」は、各方面からの街道が集結する中心地でもあり、北と南、東と西がここで切り替わる「境界」でもあった。


画像:糸魚川市提供

 さらに地質学的に見ても、西日本と東日本を分けるフォッサマグナの西側の境界線に当たる「糸魚川静岡構造線」は、安曇野を南下してきて塩尻市を通過し、諏訪湖に抜けている。つまり糸魚川静岡構造線は塩の道ともピッタリ重なっている。これだけ条件が揃うと、「塩尻こそ日本の真ん中だ!」と言い張る人が多いのも、まあ頷けるというもの。

 そんな塩尻の「日本のへそ的性格」が現在でも如実に表れているのが鉄道路線だ。JR の「中央本線」と言えば、東海道本線とならんで、東京から塩尻を経由して名古屋に至る幹線なのだが、塩尻を境に東西に分断されている。新宿から塩尻までを「中央東線」と呼び、名古屋から塩尻までを「中央西線」と呼ぶ。経営する会社まで別れていて、JR 東日本が中央東線を、一方、中央西線は JR 東海が管轄している。

 ちょっとおかしいのは、中央本線を「乗り換えなしで」東京から名古屋まで結ぶ特急が存在しないこと。必ず塩尻駅で(「あずさ」と「しなの」を)乗り換える必要がある。要するに、東京から名古屋まで「乗り換えなしで」行きたい人は、自動的に東海道本線を使わなければならない。


画像:mapbinder.com

 塩尻駅の駅舎は線路をまたぐ跨線橋の上に設けられている。このタイプの駅を「橋上駅舎」と呼ぶ。上の写真は、その駅舎の窓から南方向を撮影したもの。向かって右側の名古屋方面から来る「特急しなの」は、塩尻を経て松本(一部は長野)まで。左の新宿方面から来る「特急あずさ」も塩尻を通過して松本が終着駅となる。特急列車を途中で切り替えることはできないので、もし直通で運転するとなれば、「特急なかせんどう」みたいなものを新規に作る必要がある。


画像:塩尻市

 それでも過去には期間限定で新宿・名古屋間の直通列車が運行されたこともあったという。その場合、現在では使われていない短絡線を使用した。上の地図で見ると、矢印の「旧塩尻駅跡」から左方向にある ③ へとつながる線路がその短絡線だ。つまり今でも、必要があれば東西の中央線を乗り換えなしでつなぐような特急の運行が可能ということ。ちなみに現在の塩尻駅は ④ の場所にある。中央本線は塩尻までなので、ここから北、松本・長野方面へ向かうのは「篠ノ井線」という別の路線になっている。

 ぼくが子供の頃、自宅のある木曽から松本へ行く場合は、③ から大きく右方向に(短絡線上を)カーブして「旧塩尻駅跡」にあった塩尻駅に停車し、そこからスイッチバック(方向転換)して上方向 ④ の松本方面へ向かっていた。汽車が後ろ向きに戻って行くので、子供心にも「あれ、木曽に戻っちゃうよ!」と不思議な感覚だった。当然ながら名古屋方面からの「特急しなの」も塩尻でスイッチバックするので、座席をひっくり返して向きを変える人が多かった。

 さて、2027 年開通予定の「リニア中央新幹線」は、どこを通過するかすったもんだの末、東海道線と中央本線のほぼ真ん中を最短で結ぶルートを採用することになった。南アルプス、フォッサマグナ、中央構造線、中央アルプスをトンネルで貫通して突っ走る。日本列島を形成する過去の地質境界をすべて横断するという、ものすごい乗り物だ。


画像:情報&知識オピニオン – imidas

 品川から名古屋まで、えっ!、本当に 40 分なの? リニアだから、まさに宙を飛ぶ超スピードだ。乗降や手続きにかかる時間を考えると飛行機よりも速い。ただしトンネル区間が長いので、景色はほとんど見えない。品川を出て、しばらくして南アルプスがチラッと見えたと思ったら長いトンネルに突入。途中、大鹿村が一瞬だけ見えて、飯田駅に到着。出発するとすぐに中央アルプスのトンネル。木曽谷がチラッと見えたと思ったら、もう終点の名古屋だ。・・・にわかに信じがたいスピードだ。

 それに引き替えわが中央本線は、スピードや利便性では遠く及ばないものの、南アルプスや八ヶ岳の雄大な山々を眺め、諏訪湖畔を巡る。塩尻に着くと、ここで乗り換えとなるので、ホームに降りて名物の立ち食いそばをすする。秋にはホームに設けられた珍しい葡萄棚が見られる。名物の釜飯弁当を買い求めるのも良い。そして「しなの」に乗り換えると、新緑や紅葉など季節の風景を楽しみながら木曽谷を通過し、ゆっくりと 6 時間もかけて名古屋に向かうのだ。時間さえ許せば、なかなか捨てがたい魅力があるルートだと思う。

 さて、話を塩尻に戻そう。ぼくが働く御嶽山麓はまだまだ雪景色だが、ポカポカした春の陽気に誘われて、塩尻市にある「平出(ひらいで)遺跡」を久しぶりに訪れた。すぐ近くの国道 19 号線は毎週のように通過しているのだが、実際に遺跡を訪れるのは、小学生だった子供を連れて来た時以来なので、なんと二十年ぶり。しばらくぶりに訪れて、施設の充実ぶりに驚いた。当時、この辺りには広い葡萄畑が一面に広がっていたものだが、塩尻市が買い取って史跡公園として整備したのだ。

 平出遺跡の特徴は、なんといっても縄文時代から平安時代まで一万年以上にわたって、この同じ場所に継続して集落があったこと。広々とした気持ちの良い敷地は、ここが平安時代の村、こちらが縄文時代初期の集落という具合に区分けされており、それぞれ特徴のある茅葺きの住居が数多く再現されている。

 しかも今日は運良く縄文住居の茅葺き作業の現場に遭遇。こんなチャンスは滅多にないので、作業をしている方にいろいろと質問した。材料の茅は、伊那方面で調達するとのこと。この会社では、普通の古民家の茅葺きも行うが、こうした遺跡復元関連の仕事もかなり請け負っており、頼まれれば全国どこでも出張するとのこと。

 古墳時代以降の住居はきれいに刈り揃えるのだが、縄文住居だけはこのように段差を残したままで放置する。数年で自然な風合いになるらしい。まあ、縄文住居の屋根が実際にどのように葺かれていたかは想像するしかないのだが。家形の縄文土偶も出土しており、植物の枝や茎で屋根を葺いていたことはほぼ間違いなさそうだ。

 こちらは古墳時代から飛鳥時代の住居。縄文住居に比べるとずいぶんサイズが大きくなっており、近くには高床の穀物倉庫も再現されている。外見もなかなか大きくて立派だが、中に入ると竈(かまど)なども再現されていて、今でも十分住めそうな感じだ。

 これが一番新しい平安時代の住居だ。人物と比べると大きさが分かるだろう。入口部分が少し斜めになっておりかなり凝ったデザイン。中に入ると意外に広くて、少なくとも 20 畳ぐらいはありそう。中央の広場を中心に、こうした住居が十軒以上集まっていたようだ。近くにいろいろな体験ができる教育目的の管理センターがあり、広い敷地内を回る自転車を借りることもできる。

 ちょっと離れた山際には「平出遺跡考古博物館」がある。国や県の重要文化財に指定されている、貴重な縄文時代の土器も何点か見ることができる。

 昭和四十年代には、佐賀県の吉野ヶ里遺跡、静岡県の登呂遺跡と並んで「日本三大遺跡」と呼ばれていた。しかしその後、青森の「三内丸山遺跡」などの大規模な遺跡が次々に発見されて、平出や登呂は次第に影が薄くなってきた。それでも、縄文時代、古墳時代、そして平安時代へと続く集落跡を見られる遺跡は貴重。それに葡萄とワインで有名な塩尻市に近く交通の便も良い。

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