毎年7月22日と23日、僕が住む木曽町では恒例の水無(すいむ)神社例大祭が行われる。誰が言ったかは定かでないが「日本三大奇祭」の一つという説も。「奇祭」といわれる所以は、大工さんが松と檜を使って400キロ近くある御輿を毎年新しく作り、それを町中あちこちでゴトンゴトンと縦横に転がして壊すからだ。
せっかく作った御輿をなぜ壊してしまうのか。それには深ぁーいわけがある。ちょっと長くなるがそのいわれを紹介しよう。かなり遠い昔(伝説なのでいつなのかは不明)、木曽福島宿に惣助(そうすけ)と幸助(こうすけ)という信仰心の厚い兄弟がいた。二人は山仕事をする杣(そま)として飛騨地方に出稼ぎに行っていたが、あるとき飛騨で戦乱が起きたため飛騨一ノ宮にあったご神体を守ろうとして御輿に載せて木曽へ運び出すという一大決心をした。
二人は国道361号線(もちろん当時は飛騨街道と呼ばれていた)をエッサホイサと御輿をかついで運んできた。国境の長峰峠にさしかかると、ご神体を取り戻そうとする追っ手が迫ってきた。そのとき天から、「お前たち、御輿を転がしてもいいからご神体を木曽まで運びなさい」という神様の声が・・・。そこで二人は、お互いの名前をソースケ、コースケと呼び合いながら御輿を転がし、無事に木曽まで運んだという。そんな風変わりな伝説付きのお祭りなのだ。
長野県は夏休みが短い。したがって祭の当日が学校の夏休み前なのがちょっと残念なのだが、本町通りにはいわゆる縁日の屋台や遊戯店がたくさん並ぶ。いつもは静かな木曽福島の街が、この2日間だけはまるで別世界。小学生だった僕は、学校が終わると友達と一緒にゲーム三昧だ。昭和三十年代、僕が夢中になったのは、カタヌキ(型抜き)というゲーム。板状の砂糖菓子に動物や飛行機などの絵が彫られていて、それを針や爪楊枝などの道具をつかってくり抜く。上手に型が抜けると賞品がもらえる。あれって今でもあるのかな?
そして、みこしまくりの前夜祭として気分を盛り上げるのが花火大会だ。長岡や諏訪湖など、開けた場所で大勢の観客が見る花火大会と違って、四方を山に囲まれた木曽の花火は、その轟音が山彦を伴って響き渡る。他ではちょっと味わえない花火大会なのである。各家庭には「乱れ桜、スターマイン、○○商店」などとスポンサー名が書かれた相撲の番付表みたいなプログラムが配られる。
そんな懐かしい思い出いっぱいの祭だが、僕は高校進学と同時に木曽町を出たので、長い間ご無沙汰していた。この町に帰ってきたのは10年ほど前、高齢の両親の介護をするためだ。ときどき子供達をつれて帰省はしていたが祭に関わるのは本当に久しぶり。大した仕事ではないが、副区長として祭事を手伝うことになった。僕が住む集落は高齢化が進んで人が足りないので、僕ひとりで防災委員、会計、副区長という三役を兼任している。なんてことだ!
というわけで今日は、区長さんと一緒にバス停の前に御輿を載せる台を設置し・・・。
お供えを準備して御輿の到着を待つ。お供えは、御神酒、塩と米、それに先週のうちに買っておいた塩鯖、野菜、果物である。実はこの日、日本の最高気温記録が更新された。熊谷の気温が摂氏41.1度になったのである。いつもは涼しい木曽町もさすがに暑い。午後二時には32℃に達した。
「やけに暑いじゃねえか、なかなか来ねえな」なんてしゃべっているうちに、30分ほど遅れて小学生が挽く山車(だし)が賑やかに到着。その後に続いて・・・。
いよいよ御輿の到着だ。白木が日に映えてなかなか見事だ。御輿の担ぎ手として若い人が不足しているのはどこの祭でも一緒だろうが、木曽町でもリーダー格の担ぎ手はあまり若くない。「若い衆」と自称するその中の一人に聞いてみたところ、もう40年以上「若い衆」をやっているそうだ。つまり僕とほぼ同年代。
山車の上で笛や太鼓を演奏しているのは福島小学校の生徒達。こどもたちが自主的に郷土の行事に参加してくれるのは嬉しい。僕が小学生の頃も、同級生の誰かが頼まれて参加していたのかもしれないが、僕は音楽の成績が極端に悪かったので頼まれた記憶はない。しかし思い出してみると、演奏していたのはおじいさんおばあさんだった気もする。想像するに、演奏のやり手が足りなくなったので、「それじゃあいっそのこと、全員小学生にしてしまおう」ということになったのかも。
二つの集落の代表(区長)が玉串を捧げる。何年か後には、僕にこの役割が回ってくるのだ。こんな儀式を各町内ごとに繰り返しながら御輿は町中を練り歩く。ご祝儀を出した家の前では、家の門に御輿の先端を突っ込んで「ソースケ、コースケ」を連呼しながら御輿を揺する。
すべての町内を回り終えた午後六時頃、いよいよ「みこしまくり」の準備に入る。祭のクライマックスなので、かなりの観客や報道関係の人たち、アマチュアカメラマンなどが御輿の周りに集まってくる。何人か外国人の姿も見える。
準備が整った御輿。すでにご神体や金色の飾りが取り外されて、壊される寸前の美しい姿。縦柱と扉だけが檜で、あとの大きな部材は松を使っている。大工さんが一ヶ月以上かけて造り上げたもの。乾いていると簡単に壊れてしまうので、入念に水をかけて湿らせてある。取り外した金属の飾りは、手伝ってくれた小学生や近所の(信仰厚い)お年寄りなどに分けられた。
大工さんが御輿の準備作業をしている間、若い衆は、これから数時間にわたる重労働に備えてしばしの休憩。
さて、いよいよ御輿まくりの本番だ。飛騨街道が見える谷間に向かって水無神社の祭主と御輿の担ぎ手たちが祈りを捧げる。
国道には警察車両が何台も出て、トンネル入口のところで町内への道路を封鎖している。
だんだん祭気分が盛り上がって来た。担ぎ手達は、互いに声を掛けあいながら、連携して大仕事に向かう。慣れない担ぎ手も中にはいるらしく、年配の担ぎ手から厳しい叱咤の声が飛ぶこともある。
これが横方向に転がす「よこまくり」。転がすときは、担ぎ手全員で「ソースケ、コースケ」を連呼する。正確には、転がしのリーダーが御輿の上に乗って「ソースケ」と叫び、残りの人員が「コースケ」で応じるというのが基本。ガタンゴトンというかなり大きな音がするので、その度に観客から「わーっ!」という歓声が上がり、さらに気分が盛り上がる。
これは夜の光景。「縦まくり」は本町通りで行う。これを夜の10時過ぎまで何度か繰り返すと、御輿は台座部分を残して壊れてしまう。人が乗って転がすので、時にはけが人が出ることもある、かなり危険なお祭りだ。(画像クレジット:るるぶ&more)
今年は急に用事ができてしまって「縦まくり」の写真撮影を断念。もしこのブログが来年まで続いていたら、縦まくりだけの特集にしようと思う。それから、近いうちに水無神社の紹介記事を書く予定なので、来年まで境内の片隅におかれている御輿の残骸もお見せできるだろう。
こうして祭の行事に参加し、伝説を読んだり、氏子のおじいさんの話を聞いたりしていると、改めて木曽と飛騨の関係について考えさせられる。隣同士なのに山に阻まれているために人の交流が少ない木曽と飛騨。言葉も食べ物も人の気質も全く異なり、時には敵対しているかのように感じられる。惣助と幸助の伝説が、そうした両地方の関係を象徴しているようだ。「心の狭い山国根性」だと言ってしまえばそれまでなのだが。