魅力いっぱいの大鹿村(その二)- ゆかりの人、二人

 長野県のなかでも「僻地」と言われる土地柄でありながら、前回も触れた大鹿歌舞伎をはじめとして、文化面でなにかと注目を浴びることが多い大鹿村。今回は、そんな大鹿村にゆかりの人物おふたりに登場してもらおう。一人は鎌倉時代の皇族、もう一人は明治時代に来日したイギリス人だ。彼らを通して、大鹿村の魅力の一端に触れてもらいたい。

 大鹿村は歴史上しばしば「大物」の隠れ里になってきた。これにはこの村の立地が影響している。大鹿村の東側には赤石山脈の長大な壁がそびえ立ち、西側には急峻な伊那山地がある。戦乱の時代にこの場所に攻め入るには、北の諏訪湖方面から分杭峠を越えるか、南は遠州方面から青崩峠と地蔵峠という難所を越えるしかない。


分杭峠の「パワースポット」から高遠方面を望む。

 これら二つの峠は道が狭くて険しく、現在でもしばしば通行止めとなる。今回ぼくが行ったときも地蔵峠は車両通行止めで、来春まで通れないとのことだった。こうした難所は大規模な軍勢が通過するのはまず不可能。つまり大鹿村周辺は天然の要塞になっている。こうした立地ゆえに、都での勢力争いに敗れた大物の皇族や武士が一時的に落ち着く先となった。

 戦略的に見た大河原の地勢的利点を記述したある史家の一文を引用する:

 「・・・しかも、この地は気候温暖にして、青木川、小渋川に沿って田圃が開け、深山幽谷ながらささやかな平地があり、優に千餘の人馬を養い得る穀物も産する。一度敵に囲まれても食料だけは自給自足できる・・・」


画像:サイト“Cycle Road Racer”より

 諏訪から遠州にかけて(中央構造線に沿って)南北に伸びる国道 152 号線。古くは「秋葉街道」と呼ばれ、信濃への塩の道として人々に利用されてきた。この街道沿いにある大鹿村は、奥深い山里でありながら人の往来は意外と盛んで、都の臭いをぷんぷんさせた大物もかなり頻繁に訪れていたらしい。

 大鹿村という名前は、実はそれほど古いものではなく、大河原村と鹿塩村という二村が明治時代に合併した結果だ。したがって古い文献では、小渋川が渓谷に流れ込むところに開けたこの場所は「大河原」という地名で登場する。深い山の中で都の文化を維持しながら、しかも豊かな自然と農地に恵まれて自給自足が可能な土地。まさに「桃源郷」そのもの。

 平安の昔から交通の要衝だった大鹿村だが、近い将来にはリニア中央新幹線が村を流れる小渋川の上流で橋を架けて川を渡るという。「大鹿村騒動記」という映画で一時はマスコミに注目されたこともあったが、この村には何かと「お騒がせ」が多い。その中でも、歴史上最大の「お騒がせ人」が宗良(むねなが)親王だ。

 後醍醐天皇の第八王子として、南北朝時代に南朝方の中枢にいた宗良親王。しかし権力闘争に敗れて各地を転々とし、最終的に信濃の大河原(つまり大鹿村)に陣取ることになる。この時点での大河原村は、言ってみれば反政府勢力のたまり場だった。つまり南北朝時代における南朝方の、東国における最重要拠点といっても良い。

 宗良親王は大河原に足かけ 45 年にわたって居住し、実際に「征夷大将軍」として何度か関東方面に兵を送っている。勢力を挽回しようと奮闘努力したが、それもかなわず元中二年(1385 年)に 74 歳で亡くなった。記録にないのではっきりしたことは言えないが、最期の地はおそらく大河原だったに違いない。

 さて大鹿村ゆかりの人物としてぼくが二人目に紹介したいのが、「日本アルプス」の命名者として有名なウォルター・ウェストン(Walter Weston)。


山案内人として有名な上條嘉門次(左端)とウェストン(右端)。

 実はウェストンも大鹿村を訪れていて、その時のウェストンの言葉がいくつかの文献に残されている。ウェストンはキリスト教の牧師だったが、異教徒である日本人に対しても深い愛情を感じていた。それは日本の自然に対する愛情に付随して生じたのだとぼくは思う。

 ウェストンが最初に日本を訪れたのは二十代で独身の時。その後、同じくアルピニストの女性と結婚し、夫婦で日本に長期滞在している。職業は牧師だったが、彼の登山や旅行スケジュールを見る限り、本業の方はそっちのけで山ばかり登っていたような・・・。

 ウェストンの著書『日本アルプス~登山と探検』(岡本精一 訳)から、印象的な部分をいくつか紹介しよう。訳文の文体から年配のおじさんを想像してしまうが、ウェストンが赤石岳に登ったときはまだ 31 歳だった。彼は日本に三度にわたって長期滞在したが、その第一回目にあたる 1892 年のことだ。

 以下、青字の部分 は『日本アルプス~登山と探検』からの引用。
 

私たちは絵のような渓谷の両側に三々五々人家が散在している鹿塩市場に宿を取ったが、その宿の左側の峡谷には塩類泉が湧き出て、鉱泉は、竹の葉と幹を積み重ねたものの上までポンプで汲み上げられている。

 これは現在の鹿塩温泉のこと。ものすごくしょっぱい冷鉱泉が今でも湧いていて、旅館が二軒ある。この塩辛い温泉で「豚しゃぶ」をするとなかなか旨い。塩化ナトリウムを含む温泉は体が暖まって疲労回復効果も高い。こんな山の中の地層に、化石のように太古の海水が溜まっているのかもしれないが、現時点では生成原因がよくわかっていない。

 

目的地の大河原村は、小渋谷の遥か上に褐色をした民家が、よく耕された畑の真ん中に気持ちよく並び、低い山腹には絵のような寺がのぞいている。この村は人里離れた場所にありながら、住民は全く進んだ人々である。原始的な鐘楼は樫の木の板を二本の高い柱の間にかけられ、知らせごとがあると大きな棒で打ち、その音は村中に響くのである。

 全くもって桃源郷そのものといった情景が目に浮かぶ。その印象は、今でもそれほど変わらずに大鹿村に残っている。

 

(・・・小渋の湯について・・・)この湯は七十三歳の白髪の老人が管理していて、後で分かったことだが、先客があったのに一番良い部屋を私に提供してくれたことだった。そして彼は私が「外国風」に食べるところを、粗末な梯子段の一番高いところに座って、まるで「動物園」に来て、野獣が食事をしているのを眺めている人のように見えたが、彼の不思議そうな顔を私は決して忘れないだろう。

 高いところからそっと「珍しい外国人」の様子を見ている老人の様子が目に浮かぶ。それを優しい気持ちで「見て見ぬ振り」をしながら黙々と食事を続けるウェストン。何ともほほえましい情景だ。それにしても、三十歳を過ぎたばかりのウェストンの、この老成ぶりはどうだろう。

 

私が彼に「大変親切にして頂いたけれども、いくら払いましょうか」と云うと、非常に当惑した顔をして頭を振った。そして、「実はあなたが、私の家にお泊めした最初の外国人ですから、いかほど頂いてよいかさっぱり分かりません」と云い、しばらくためらっていた後、とうとう非常に法外な要求をするのを半ば恥じるように、「五銭いただきましては、あまりに高すぎましょうか」と口ごもりながら云った。
 私が宿賃に加え「茶代」(チップ)を彼の手に押し与えると、彼はすっかり途方に暮れてしまったが、それは有難さのあまり途方に暮れたと信じたのである。

 ほほえましい情景が目に浮かぶ。年は若くても髭をたくわえて貫禄もあるウェストンが、湯宿の主人にはずいぶんと偉い人に見えたのだろう。

 

(・・・赤石岳登山を終えて・・・)帰り道、私は大河原で楽しい日曜日を過ごした。そして、これらの親切な人々と別れを惜しんでいた時、宿の主人の母が、お知り合いになった印に馬鈴薯を六つ受け取ってくれと云って聞かなかった。私がそれをリュックサックの中に詰めた時、彼女の年老いた優しい顔はもう一度輝き、この上もなく満足そうだった・・・。
 山深い貧しい村に、これほど心豊かで教養の高い人々を見たことがない。

 ちょっと褒めすぎのような気もするが、人々の歓待ぶりに感激したのだろう。
 さて、ぼくもこれまで大鹿村を何回か訪れているのだが、実はウェストンと同じような印象をこの村の人々から受けることがある。まあ、信州人はおしなべてよそから来た人には親切なのだが、大鹿村の人々の柔らかさというか、和やかさは、どこかホッとさせてくれるものがある。

 食堂でうどんを食べても、通りがかりのおばさんに道を尋ねても、何となくほんわかとした雰囲気が漂っている。どこか遠いところへ来たような、不思議な感覚に襲われることがある。しかもここの住民は、あの「三六災害」からも粘り強く立ち直り、大鹿歌舞伎の伝統をしっかりと守っている。何度か訪れるとじわじわ伝わってくる「魅力いっぱい」の大鹿村なのだ。

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