あきが二百五十八人

 小学三年生の「あき」にとって、雨の日曜日ほど期待はずれなものはない。だけど今朝はちょっと違うんだな。何か変わったことが起こりそうな、ムズムズするような予感がある。

 お休みの日は決まって朝寝坊をしているお父さんが、なぜか今日は、朝からパソコンに夢中になっている。
「フンフン、これをダウンロードすればいいんだな。」
「おおお、来た来た! こりゃちょっと画期的だなあ。すごいぞ!」
 とかなんとか、訳の分からないことを嬉しそうな顔でつぶやいているお父さん。

 ・・・だうんろーどって、なんだろう?・・・
 と考えながら、あきも、パソコンの画面をお父さんの肩越しに見ている。
 お父さんは、マウスをカチカチやりながら、まず一つの部屋に入って行く。そこで画面に出てきたおじさんの案内にしたがって、小熊のたくさんいる部屋へ入って行く。
 あきは、熊のぬいぐるみが大好きだ。

「あき、ちょっと待ってな。今このかわいい熊さんをダウンロードして上げるから」
 お父さんが、パソコンの画面上でちょっとほほを赤らめてこっちを見ている子熊のボタンを押した。
 しばらくコップの中にだんだん水がたまるような絵が出ていたと思うと、画面上に箱の形をしたものが現れた。どうやら、その中にさっきの熊さんが入っているらしい。

「ふーん、これがそのだうんろーどってことなの? あきもやってみたいな」
 と、つぶやくあき。
 それには答えず、お父さんは夢中になっている。
「お父さん、これおもしろいねえ。あきにもやらせてよ。学校でもパソコンやってんだから、できると思うよ」
「だめだめ。これはちょっと難しいんだ。今度暇なときに、あいうえおの書き方を教えて上げるからね」
「ふーん、つまんないの」

 しばらくお父さんの横で一緒に画面を見ていると、お父さんのポケットに入れてあるケータイの呼び出し音が鳴った。
 お父さんは、パソコンの画面を見つめたまま、面倒くさそうに手探りでケータイを開き、相手の番号を確認すると、急に真面目な顔になって商売口調で答える。
「はい、有限会社アルハイです」
 どうやら取引先からの電話らしい。

「え? それでどうなったんですか? ・・・大変、申し訳ございません!」
 お父さんの顔が一気に険しくなった。
「はぁ、はいはい、すぐそちらに向かいます」
 お父さんは、あたふたとカバンに書類やらコードの付いた小さな機械などを詰め込んでいる。しめたカバンのチャックのところから、電源のコンセントが一つ飛び出している。
 しばらくするとお父さんは、パソコンのモニタのスイッチを切って、慌てて出ていった。
 でも部屋を出る前に、ちょっとあきの方を見てにっこりしながら、
「あき、お利口にしてるんだよ」
 というのを忘れなかった。

 あきは知っている。モニタの電源が切ってあるだけで、パソコンはまだ動いていることを。スイッチを押すだけでまた使えるんだ。でも隣の部屋にはお母さんがいるので、勝手に手を触れるわけには行かない。

 ところがなんと、今日は最初に何か予感がしたように、特別な日だったのだ。お母さんも妹のりさちゃんを連れて外出するみたい。
「あきちゃん、一人でお留守番できるわね。りさちゃんがちょっと熱があるみたいだから、診療所に行って、それからスーパーにも寄ってくるから」
「うん、大丈夫」
 と、口では何でもなさそうに答えながら、心の中では大きな声で、
「ラッキー!」
 と叫んでいたのだ。

 お母さんは、熱で赤い顔をした、りさちゃんを背中に負ぶって出ていってしまう。
 あきは、にこにこしながら「さあてパソコンいじるぞ」とつぶやくと、モニタのスイッチを入れる。
「やったぁ!」
 まださっきの熊さんが、そこに見えている。

 あきは、ダブルクリックだって知っている。パソコンについているマウスのボタンを、二回続けて押すだけなんだ。さっそく大好きな熊さんの絵を、パチパチッと押すと、箱から熊さんが出てきてあきに挨拶するではないか。
「うーん、おもしろいぞ、おもしろいぞ!」

 画面をあちこちクリックしているうちに、熊さんの口から小さな旗がでてきた。そこになにか宣伝みたいなものが書いてある。反射神経の良いあきは、ためらわずにその旗をクリックした。
 しばらくすると、眼鏡をかけたおじさんがでてきて、あきに英語みたいな、訳の分からない言葉でなにか話しかけている。
 お話が終わる度に、小さな「YES」と「NO」のボタンが付いたボックスが出た。

「YES」ボタンの方は、いかにも「押してください」と言わんばかりにピカピカ光っている。
 意味はよく分からなかったが、あきは構わず「YES」の方ばかり押し続ける。そして最後に、さっきのおじさんがずいぶん真剣な顔をして、ちょっと発音のおかしな日本語で、
「ドウイ、シマスカ?」
 と何度も尋ねてくる。
 あきは、ちょっとだけ不安になったがそれでも構わずボタンを押した。

 その時だ。スーッとパソコンの中に吸い込まれるような気がしたと思うと、画面上に、
「アップロード、カイシ!」
 という文字が見えた。それっきり、あきは気を失ってしまった。

 何分くらい経ったのだろう。目を覚ましたあきは、まだ一人で部屋の中にいた。
 そのとき、玄関の方に、お父さんが帰ってきた気配。あきは慌ててモニターのスイッチを切って、素知らぬ顔で漫画を読み始めた。

 しばらくしてモニターのスイッチを入れたお父さんは、すぐ異常に気づいた。
「あき、パソコンに触ったな!」
 うそを付いてもダメだと思ったあきは、一部始終を説明した。最後の方は、もう涙声になっている。
「だって、どうしてもあの熊さんが見たかったんだもの。お父さん、ごめんなさい・・・」

 お父さんは、すごく真剣な顔になって、「検索エンジン」がどうしたとか「データベース」がどうなったとかつぶやきながら、あっちこっち探し回り、それからさっきのおじさんとも画面上で話をしている。
 しばらくして、あきの方を振り返ったお父さん。とても困った顔をしている。
「あき、大変なことになった。お父さんのパソコンが臨時サーバーになって、おまえが世界中に配信されてしまったんだよ。もちろん本物のあきはここにいるんだが、おまえとそっくりのコピーが、現在世界中に二百五十八人もいるんだ」

 あきは、理屈はよく分からないが、さっき自分が吸い取られたような気がした理由が何となく分かった。お父さんはさっきのおじさんと交渉して、これ以上コピーが作られることは何とか阻止したのだが、すでに配信されたあきについては、「ケイヤク」が成立しているのだという。さっき何度も「YES」ボタンを押したのが、それだったようだ。

 お父さんの説明によると、これはパソコン画面の前に置いてある物体を、世界中でこのページを見ている人に一瞬で送る「クイック・トランスファー」という新技術らしい。あきがさっきパソコン上で宣伝を見ていた、あの会社が始めた新しいサービスだという。

 本当は、ちょっとしたプレゼントなどを外国にいる人に急いで送るためのサービスなのだが、最近は通信技術が進んでいるので、生物だって送ろうと思えば送れる。それにしても、人間を送ったのはあきの場合が初めてで、会社の人もどうしたらよいのか困っているらしい。
 それにもまして、一番弱っているのはお父さんだ。

「うーん、もちろん本物のあきはここにいるんだが、全く同じあきが二百五十八人もいるのは、実際、困ったものだ。その中の一人が、交通事故にあって、足の骨が折れたら、どうなるんだ?」
「わかんないけど、あきも足が痛くなるかも知れないね」
「そうだよ、そうだよ。それに第一、お父さんとお母さんの大事なあきは、世界中で、いや全宇宙でも、たった一人のあきなんだ。それが何百人もいるなんて、考えただけでぞっとする。どうしたらいいんだ」

 何秒間か、凍り付いたような時間が流れた。しばらくするとお父さんが、
「こうしてはいられない!」
 と、怒ったような声でつぶやくと、さっきのおじさんに教えてもらった世界中の配信先にメールを打ち始めた。
 そのうちお父さんはだんだん興奮してきて、コンピュータのキーボードをバンバンたたきながら、狂ったように文字を打ち続ける。

 あきはちょっと心配になってきて、
「お父さん、ちょっと落ち着いてよ」
と声をかけた。
 するとお父さんは、
「大事なとこなんだ。黙ってな!」
と叫んで、パソコンの画面をにらみつけている。よく見ると、目から涙が流れているみたい。あきもだんだん怖くなって来て、
「お父さん!」
と腕にしがみついた。

 その時だった。お仕事をたくさんしすぎたせいか、コンピュータの箱の方から「カラン、カラン」という乾いた音がしたと思うと、「プシューッ」といったきりコンピュータの画面が消えてしまった。
 それを見たお父さんは、
「アッ、ハードディスクが死んだ!」と叫んだ。

 しばらく真っ青な顔で考え込んでいたお父さん。立ち上がると電源のコンセントを抜き、パソコンの箱を抱えて、ものすごい形相で出ていった。いつものパソコン屋さんに行ったのだろう。
 あきも、お母さんも、そしてりさちゃんも、ただ呆然と見送るばかりだ。お母さんも、今では何が起こったのか分かったのだろう。青い顔をして、ご飯を作るのも忘れて、時折ため息を付きながら、宙を見つめている。

 一時間ほどして戻ってきたお父さんは、なんだか覚悟を決めたような表情になっていた。パソコンの電源をオンにすると、なんにも言わずに仕事を始めた。お母さんが心配そうに、
「ねえ、なんとかなりそう?」
 と尋ねる。
「うん、今ちょっとバックアップを探してるんだ。えーと、あー、やっぱりだめだ。完全にやられてる。外部から侵入されたとしか考えられん!」
「じゃあ、もう、このまま放っておくしかないの?」
 と、お母さん。

「ちょっと待ってな。今メールを確認してみる」
「お父さん、がんばってね!」
 と涙声のあき。
「分かってるよ。できるだけのことはやってるんだ」

 しばらくして、お父さんがインターネットへの接続に成功すると、なんだか世界中から抗議のメールが来ているらしい。
「へえ! 配信されたあきが、世界中で消滅しているらしいぞ」
「え? それどういうこと?」

「そうか、分かったぞ。臨時サーバー上にあったオリジナルコピーが消滅したからに違いない」
 お父さんは、椅子の背にガックリともたれて目を閉じた。顔には、ほっとしたような笑みが浮かんでいる。
 しばらくして、こちらに向き直ると、こんな風に説明してくれた。
「ちょっと難しいので、分からないだろうけど、簡単に説明するよ。つまり、配信された二百五十八人のあきは、まだ完全に細胞が実体化していなかったので、お父さんのパソコンの中ににあったあきの素が無くなってしまうと、存在し続けることができなくなったらしい。とにかく、全部消えちゃったんだよ」

「あー、よかったぁ」
 お母さんも、腰が抜けたように、その場に座り込んでしまった。
「あきは、ここにいるおまえ一人になったのさ。世界中にたった一人の、お父さんの大事なあきだ」
 そう言うとお父さんは、あきをしっかりと抱きしめた。あきもなんだか胸がいっぱいになって、涙がどんどん溢れてきた。

(おわり)

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