阿。
吽。
というわけで今回は、7月23日の記事で紹介した神輿が保存されている「水無神社」を訪問。飛騨一の宮水無(みなし)神社から奉斎された神社だが、木曽の方は「水無(すいむ)神社」と読む。現在の神主は僕の同級生の弟さんで、言わば顔なじみ。この記事を書くに当たって貴重なお話を聞くことができた。
惣助と幸助が命がけで運んだご神体を祭る水無神社は、町の中心部から二キロほど離れた山間にひっそりと建っている。町民のほとんどが氏子になっている神社なので、本来なら参拝しやすい場所に建てるのが普通なのだが、やはり「飛騨からの追っ手」に対する配慮なのか。
町から離れているために訪れる人も少なく、落ち着いた佇まいを見せるこの神社が僕は大好きだ。自宅で翻訳業をしていた頃は、運動不足解消のため、ほぼ毎日この境内まで歩いてストレッチや体操などをしていた。雪の日も、風の日も、毎日、毎日通っても、決して飽きることがない場所。
これが先月の神輿まくりで町中を転がしたあとのお神輿だ。完全にバラバラというわけではなく、骨格はほぼ残っている。神輿が見たいと訪ねてくる観光客もいるので、壊れた部分を針金で補強してだいたいの形が分かるようにしてある。こんな風に展示するようになったのは、ここ二、三十年のことらしい。
こちらが昨年のお祭りで壊された古い神輿の残骸。これを来年の正月の「お焚上げ」で焼いてしまう。以前は次の正月が来るとすぐに焼いていたものを、観光客に見せる神輿が無いと寂しいということで、壊れた神輿を一年間そのまま公開することになった。公開が終了した神輿は、壊れたばかりの神輿と入れ替わりに細かく切断され、次の正月に煙となる。
社殿の内部。幅が2メートルほどもある大きな天井絵馬が頭上を埋め尽くしている。中には神輿行列の絵馬もあるが、整然と進んでいて「神輿まくり」をしている様子はない。神輿まくりの行事は、おそらく伝承を元にして江戸時代に始まったものだろうという神主の話だ。要するに江戸時代の地域振興事業だったのかも。
惣助と幸助が実在の人物なのかは不明。しかし飛騨一宮の戦乱でご神体を収めた社殿が焼け落ちそうになったため、それを憂えた何者かがご神体を運び出したという話は事実なのだろう。そのときに小さな神輿を作ってそれにご神体を入れて運んだというのもありそうな話だ。
神主の話によると、実はご神体を運ぶのに使った小さな神輿が神社内のどこかに実在しているという。しかし先代からの言いつけで、神主といえどもそれを開けてみることは禁じられているのだとか。僕が「ご神体はやっぱり鏡ですか?」と訪ねると、神主自身も知らないという。本当に知らないのか、はたまた秘密にしているのか。彼の表情からうかがい知ることはできなかった。
神社の価値は、その神聖さや奥ゆかしさにある。成り立ちのすべてがあからさまになっておらず、秘密めいた部分が残っているところが良い。背後を深い山に囲まれ、境内には樹齢数百年になる檜(ひのき)、椹(さわら)、杉などが社殿を守るように並び立ち、ここを訪れる人の心を諭すように鎮めてくれる。