国道 361 号は、中部地方の険しい山岳地帯を東西に横断する数少ない国道路線のひとつだ。飛騨山脈(北アルプス)と木曽山脈(中央アルプス)の両方を横断するこんな国道は他にはない。当然ながら、車で走ると(もちろん歩きながらでも)峠を数多く越えることになる。
この国道 361 号が通っている険しい山岳ルート、実は平安の昔から人々が往来する街道だった。当時の人々が歩いて京都から関東へ行くには、東海道を通るか、あるいは中津川から難所の神坂峠を越えて飯田から伊那谷へ出るのが普通だった。しかし中には岐阜から飛騨高山へ抜け、そこからさらに野麦峠を越えて松本に抜ける人も多かったに違いない。
したがって高山から開田を経て木曽福島へと通う道も、平安時代にはすでに重要な街道のひとつとなっていたのだ。そして源頼朝が鎌倉幕府を開くと、木曽福島から伊那路を経て鎌倉へと向かうこの街道の重要性はさらに高まった。
事実、飛騨地方の人々は、この道を「鎌倉街道」あるいは「木曽街道」と呼んでいた。一方、木曽の人々は飛騨高山から様々な物資が運ばれてくるこの道を「飛騨街道」と呼び、当時は大変な貴重品であった年取魚のブリ(鰤)が塩漬けで運ばれてくることもあり、親しみを込めて「鰤街道」と呼んだりもしていた。
さて、飛騨(つまり現在の岐阜県北部)と木曽福島の間が国道 361 号で結ばれているのは前述の通り。しかしそれと並行して、人々が歩いて往来した「旧飛騨街道」が今でも残っていると言ったら信じてもらえるだろうか。しかも中山道のように国道に寸断された切れ切れの遊歩道ではなく、かなり長い距離をほぼそのままの形で歩ける。
そこでぼくが企てたのが「旧飛騨街道ウォーキングコース復活プロジェクト」だ。岐阜側の日和田から開田高原にある木曽町の開田支所までは約 15km の距離がある。外国人に限らず、日本人の中高年でも、古道をガッツリ歩きたい人には理想的な一日コースになりそう。しかも、長峰峠、関谷峠、西野峠と、標高 1300 メートル以上の峠を三つも超えて、御嶽山や乗鞍岳を眺めながら歩けるのだ。
ロングトレイルのスタート地点は、長峰峠の飛騨側にあるこの八幡神社だ。小日和田(こひわだ)という集落の真ん中にあり、周辺には数軒の民家が点在するだけで、バス停も雑貨店も、もちろんコンビニも何もない。しかし遊歩道はしっかりと整備されていて、草もきれいに刈ってある。
その秘密は、飛騨高根観光協会が行っている「石仏巡り」プログラムだ。見やすい散策マップも用意されていて、地元有志のガイドさんが案内してくれる石仏巡りツアーも行われる。石仏に興味のある人たちには人気の場所なので、前述のように道も整備されていて歩きやすく、説明板などの案内も充実している。
八幡神社の近くにある木製の橋。その先に続いているのが我が飛騨街道だ。しかしここは飛騨側になるので、案内板の地図には「鎌倉街道」と表記されている。源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころに想いを馳せるには、ちょうど良い名称だとも言える。
途中、こんな風に土橋で三回ほど沢を渡る。
11 月も半ばを過ぎると、標高 1300 メートルを超えるこの地域はすっかり晩秋の雰囲気だ。落葉樹の葉はすべて落ちて、明るい山道を気持ちよく登ることができる。
峠が近くなるとシラカバの林となり、斜面はクマザサですっかり覆われている。
葉の落ちた木々の隙間から乗鞍が見えた。春から夏にかけては、木の葉が茂っておそらく見えない。
それぞれの季節ごとに楽しみはあるのだが、雪化粧した御嶽が見られる晩秋から初冬にかけてのこの時期は、峠歩きには最適かもしれない。
ここを「長峰峠」と呼ぶのは、信濃と飛騨国境の長い稜線に沿って峠道が 1km ほども続くからだ。
街道沿いに、木曽義仲ゆかりの史跡が集まっている場所がある。これは「義仲の腰掛岩」。
こんな案内板もある。しかし調べてみると、義仲が平家討伐のために北陸に進軍したときには松本を経由しているのでここを通っていない。だからここを通ったのは、その数年前に飛騨に攻め入ったときだろう。こうした案内板は嬉しいものだが、必ずしもその内容をすべて鵜呑みにできるわけではない。
しばらく行くと御嶽山の絶景ポイントに出る。いつも見慣れた開田高原からの御嶽山とは違って、北側から見ると継子岳が高く盛り上がってスッキリした姿だ。奥の方に見えているのはアルマヤ天のピークと摩利支天山の稜線。3067 メートルの剣ヶ峰は、ここからは見えない。
右下に国道 361 号線が見える場所にこんな分岐がある。右折すると急坂を下って国道に出るが、これは国道ができてから峠の茶屋に向かって付けられた新道で、本来の飛騨街道(鎌倉街道)は前方の笹藪の中にしっかりと痕跡が見えている。左折すると御嶽大権現碑や馬頭観音のある広場に出る。
この場所は、「御嶽四門」と呼ばれる四つの御嶽遙拝所のうち、西の門に当たる「菩提門」の遙拝所があった重要な場所。いまでは数体の石仏があるだけで、遙拝所の建物や鳥居は残っていない。
上の写真で右側に見えている大きな木製の案内板。このように拡大すると、現在の国道と昔の飛騨街道の位置関係がよく分かる。将来的には、約 100 メートルほどのこの区間も、本来の旧鎌倉街道を復元してしっかり歩けるように整備したいものだ。
今は営業していない長峰峠の食堂。
新しい国道ですっかり破壊されているが、旧飛騨街道はこの場所で前方の谷に向かって下っていた。
さて、ここからが問題の区間になる。全長で 15km ほどあるコースの中で、約 2km のこの区間、つまり長峰峠から西又地区に出る谷川沿いの道は、50 年以上全く人が歩いていない。道は雑草やササヤブ、そして大量の倒木に覆われて、道筋がかろうじて判別できる程度。しかし、この 2km さえ歩ければ、全部で 15km の素晴らしいウォーキングトレイルを通して歩くことができる。
ぼくは、このボトルネック区間を整備しようと決意した。まず身の丈を越えるササヤブを刈払機で切り開き、友人にお願いして何十本という倒木をチェーンソーで切断し、片付けた。その結果、上の写真のような風景が出現したのだ。まだまだ快適な山道とは言えないが、人が歩いているうちに、だんだんと歩きやすくなってくるだろう。
わずかに水が流れている沢。できれば切った倒木を使って橋を架けたいところ。
ここにも大量の倒木があった。整備さえしていれば、木立に囲まれて夏でも涼しい遊歩道になりそう。
ここが最大の難所。50 年前には木橋が架かっていて、その木橋を渡りながらお地蔵さんに挨拶をして通った場所だ。現時点では岩につかまりながら通過するしかないが、できればちゃんとした橋を架けたい。それが無理なら、安全に通るためのロープか鎖を設置する。
二つの沢が合流するところ。春にはどんな光景が見られるのか、今から楽しみだ。
沢に沿って平坦な遊歩道を下ると、前方に自動車道が見えてくる。
草を刈ったら、馬頭観音が現れた。何十年も草に埋もれていたのを発見したのだと思うと、ちょっと嬉しくなった。草の中から昔の街道の遺物が現れることは良くある。ここで一旦車道に出るが、100 メートルほどで再び旧道に入る。記事が長くなるので、ここからあとは「後編」の記事へ続く。