長野県を通過する中山道は、大きく三つに分けることができる。馬籠から贄川までの「木曽十一宿」、次に本山から下諏訪までの四宿、そして今回ぼくが歩いた「東信州十一宿」だ。外国人をガイドしながら中山道を歩く場合、これまでは木曽十一宿、なかでも特に人気の高い馬籠峠、妻籠宿、鳥居峠、奈良井宿、与川道がメインだった。
しかし中山道歩きのリピーターが増えるにつれて、「もっと違うところも歩きたい」という希望は当然出てくる。もちろん木曽周辺であれば、御嶽古道、木曽から高山へ抜ける旧飛騨街道、木曽川の源流を探索する水木沢や鉢盛山など、楽しく歩けるトレイルの候補は多い。
そんな中で、全く歩いた経験が無かった「東信州十一宿」も確認しておきたいという気持ちは以前から強かった。そして手始めに歩いた和田峠でぼくが受けた衝撃は「和田峠から下諏訪宿」を読んでくださった方々にはそれなりに伝わったと思う。とにかく素晴らしいトレイルだ。
さて、ここでいよいよ問題の「東信州十一宿」。ぼくが「問題の」と書いたのは、事前にチェックした和田宿と長久保宿で、地域自治体の対応不足を感じたからだ。それは観光地としての宣伝や施設を期待するという意味ではなく、もっとシンプルな歩く旅人への対応。具体的にはとりあえずトイレと休憩所、そして必要かつ十分な標識の設置だ。気持ちよく中山道を歩いてもらおうと思ったら、これらは自治体として当然の義務だとぼくは思う。
そんな観点で、ぼくは東信州十一宿を歩いてみた。もちろん魅力的なスポットは各宿場ごとに存在するのだが、「中山道を歩く」ことをメインに据えたため、全体としてかなり辛口な評価になってしまった。各宿場の歴史にスポットを当てればもちろん全く違った評価ができるだろう。
そして和田宿から岩村田宿までの七宿では、宿場を順番に歩く際の問題点が一つある。この地域に鉄道が通っていないのと、バスなどの公共交通も不便なことだ。これはウォーキングトレイルとしては大きなデメリットであり、実際ぼくもずいぶんと苦労した。そうした課題は課題として、とにかく和田宿から歩き始めよう。
この画像は、以前の記事「和田峠から下諏訪宿」でも紹介した広重の和田宿。かなりデフォルメされた構図だが、和田峠が中山道の中でも一番の難所であり、しかも下諏訪宿までが長いので、人馬の手配などの面でも重要性の高い宿場だったことが分かる。今では滅多に人の通らぬ山道になっているが、江戸時代には、この作品に見られるように道幅六尺でしっかり整備されていて歩きやすかったに違いない。
和田宿内では、マンホール蓋の絵柄に広重の作品を使っている。難所である和田峠を西に控えた和田宿は、長久保宿や塩尻宿と並んで規模の大きな宿場だった。立派な本陣跡など、その名残は随所に見られる。和田宿から和田峠に向かって歩く場合、オフロードが始まる「男女倉口」まで、距離も 5km 以上、標高差が 500 メートルもある単調な車道(国道 142 号)を歩くことになる。しかも下諏訪宿まで約 23km の間に、トイレも休憩所もコンビニもなにもない。この現状はなんとか改善したいものだ。
それはさておき、今回は和田宿から東(軽井沢方面)に向かって歩く。この写真は和田宿の真ん中にあるバス停と休憩所。本陣跡もこの近くにある。和田宿は、和宮降嫁の八ヶ月前に宿場が全焼したことで有名。したがって現在の本陣や脇本陣は幕末に建てられたものだ。幕府の補助金で数ヶ月で復活させたことからも、この宿場の当時の重要性をうかがい知ることができる。ここから長久保宿までは 8km ほどの距離だが、すべて車道歩きで交通量も多い。コンビニがあるのでトイレや水分補給の心配は無用だ。
長久保宿。宿場が旅館「濱田屋」の前で直角に曲がっているのが特徴。本陣跡などが残っているが、休憩所もトイレもない。ちなみに、美濃路から和田峠までずっと設置されていたあの青い中山道の標識は、この長久保宿から東では全く見られなくなる。標識に統一感がなくなり、分岐に標識がない場所や、明らかに間違った標識もあった。歩く場合は地図と事前チェックが欠かせない。
長久保宿と芦田宿の間には笠取峠がある。峠に向かって、短いが 500 メートルほどのオフロードを歩く。東信州の中山道はほとんど車道を歩くので、この部分と望月宿の瓜生坂で歩ける山道は貴重な存在だ。車道の交通量が多くコンビニもないが、宿場間の距離は 5km ほど。
笠取峠を超えてしばらく歩くと、「笠取峠の松並木」という看板があって名所となっている。ちょうど良い休憩場所でトイレもある。秋にはモミジの紅葉が見られるだろう。
芦田宿の本陣跡。現在は土屋家の住宅だが、手入れの行き届いた庭がなかなか見事。しかし宿場全体として、当時の風情が感じられる場所はほとんど無いといって良いだろう。
宿場町の中ほどにある、ふるさと交流館「芦田宿」。今回歩いた七宿の中では、中山道歩きの休憩施設が一番充実している。
館内は広くて無料の喫茶スペースもあり、ジオラマで周辺の地形も確認できる。もちろん清潔なトイレも無料で使うことができる。
茂田井間の宿。「間の宿(あいのしゅく)」というのは宿泊施設のない休憩専用の宿場を指す。宿場としては扱われないが、その代わりに江戸時代には商売に力を入れていたようだ。現在でも酒蔵がいくつかある。中山道の宿場町というよりも、レトロな雰囲気が濃厚に漂う懐かしい昭和の町並みと言ったところ。
ずっと奥まで続く露地。人がやっとすれ違うことができる道幅だ。茂田井は「東信州七宿」には含まれていないが、皮肉なことに街道歩きを一番楽しいと感じたのがこの区間だった。交通量が少なく、道は変化に富んでいて、周辺の田畑や民家にもなんともいえない風情がある。
竹重酒造の事務所。芦田宿から望月宿までの距離は約 5km なので、この区間に休憩所は必要ないだろう。中山道は国道から外れているので交通量も少なくとても静かだ。歩くのが楽しい区間でもある。
望月宿。宿場町の古い町並みはほとんど残っていないが、歴史民俗資料館の前庭に休憩所やトイレなどがあり、中山道歩きの休憩所としては充実している。本陣は小児科医院。本陣跡が開業医になっているケースは他の宿場でもたまに見られる。
望月宿の外れにある瓜生坂。今回訪問した八宿の中で、オフロードの中山道を歩くことができる区間はごくわずかだが、瓜生坂はその一つ。
八幡宿に向かう水田地帯。浅間山がきれいに見える。しかし八幡宿には宿場町の風情はあまり残っておらず、休憩所もトイレもないので注意が必要。宿場から歩いて 10 分ほどのバイパス沿いにコンビニがある。
八幡宿から塩名田宿までの距離は 3km にも満たない。中山道の中でも宿場間の距離では最短。和田宿と下諏訪宿間の約 23km に比べるとほぼ十分一の短さだ。その理由が、この千曲川。水かさが増えると渡ることが困難になるため、この付近の宿場に足止めを余儀なくされる旅人が多かったのだ。
上の写真と同じ場所を描いた広重の「塩名田宿」。河原宿の「竹迺家(たけのや)」は、写真のように今でも営業している。中山道は橋の下を通り、竹迺家の前を曲がって続いている。
岩村田宿。残念ながら、岩村田宿には中山道の面影を見ることは全く不可能。江戸時代には本陣もないほどの小さな宿場だった岩村田は、近代化と共に佐久地方の中心として交通の要衝となり、中心部はアーケードのある商店街となっている。英泉の描いた岩村田は、人々の喧嘩を描いた珍しい絵柄となっている。