「美味しいものが食べたい」という欲求は、人類をここまで進歩させた原動力のひとつだ。単に空腹を満たすだけでなく、ぼくらのご先祖はうまいものを食べるために様々な工夫をしてきた。そしてその努力は今でも続いている。
下の写真は、若狭三方縄文博物館を訪問したときに見た「太古の料理」のレプリカだ。かなりリアルな模型なので、製作直後にはさぞ生々しかっただろう。
今は経年劣化とホコリで、ちょっと残念な見かけになっている。でも右下に見えているハマグリと海草のスープはそれなりにうまそうなので、最近になって追加されたのかも。
肉や魚介類、それに木の実や木の根などが中心の食事は、炭水化物が少なめで、現代人の食生活よりずっと健康的だ。海に近いので、味付け用の塩も簡単に手に入っただろう。
このレプリカは鳥浜貝塚遺跡から出土した魚や動物の骨を元に復元したものなので、調理方法はさておき、使っている食材は当時の物だ。もちろん盛りつけとか分量は想像にまかせて作ってある。縄文の人々にも、美味しそうに見えるよう盛りつけようという意識はあったと思う。そうでなければ、あんなに美しいフォルムの土偶が作れるはずがない。
さて、縄文時代の幕開けは、最終氷期が終わった 11600 年前頃のことだ。この時期を境に世界の気候は唐突に変化する。この気候の急変はグリーンランドの氷床コアでも見られ、そして水月湖の年縞でもほぼ同時に見られる。つまり、温帯でも寒帯でも世界中で同時に起こった可能性が高い。
この温暖化に伴って福井県の三方五湖周辺でも縄文人の大集落が発生し、それから一万年近くムラが存続した。同じ場所で数千年も続くムラ社会というのは非常に珍しい。その間には何度か寒冷な時期が訪れてピンチになったものの、縄文の人々は狩猟と農耕を上手に組み合わせることで環境の変化に対応した。
しかし縄文人は、豊富な食料が手に入る若狭湾のような場所に安住(かどうかわからないが)していただけではない。東北や北海道にも縄文の遺跡は数多く存在する。また人口の増加に伴って、現在の長野県八ヶ岳山麓のような高冷地にまで進出し、偉大な芸術を生み出すまでに発展した。
一般的に、縄文時代は「狩猟採集」で食料を得ていた時代であり、それに対して次の弥生時代は「農耕社会」だったとされている。ぼくらが40年以上前に受けた教育も、そして現在の教育も、この点で大きな差はないようだ。
つまり、原始的な縄文時代に対して、より進んで洗練された弥生時代というステレオタイプだ。でも最近になって、縄文時代にも小規模の農耕が行われていた証拠が見つかったこともあり、縄文=原始的というステレオタイプは大幅に見直されている。
八ヶ岳山麓の茅野市にある「尖石考古博物館」は、高冷地に進出した縄文人の生活を伝える貴重な施設だ。この周辺の遺跡では相次いで縄文中期の土偶がほぼ完全な形で発見され、世界中の考古学関係者や美術愛好家の注目の的となっている。
左側が「縄文のビーナス」で、右側が「仮面の女神」だ。今から約5000年前に作られた「縄文のビーナス」は妊婦をかたどったもので、縄文時代の出土品として初めて国宝に指定された。まず海外でその価値が認められてから国内で評価が上がるという、よくあるパターンだ。
それまで縄文時代のこうした土偶や土器は、単なる「工芸品」として扱われていた。それが優れた芸術として認められるようになったのには、岡本太郎の功績も大きい。(画像は、長野県茅野市の尖石考古博物館、朝日デジタルより)
季刊みづゑという美術雑誌に寄稿した「四次元との対話-縄文土器」という文章の中で、岡本太郎は縄文土器について次のように書いている。
「この凄まじさは観る者を根底からゆさぶり、身のうちに異様な諧調を共鳴させる。それは習慣的な審美眼では絶対に捉えることのできない力の躍動と、強靱な均衡なのである。」
ぼくが大阪に住んでいた頃、子供たちとよく遊びに行った万博公園。そこに今でも岡本太郎作の「太陽の塔」が大阪万博の記念碑として残されている。この太陽の塔には「縄文の怪物」というあだ名が付いている。
大阪万博では「進歩と調和」のシンボルのように扱われていた太陽の塔だが、岡本の意図は全く違うところにあったらしい。てっぺんにある「黄金の顔」(未来を象徴)はまるで縄文の仮面のよう。いっぽう腹部中央にある「太陽の顔」(現代を象徴)はかなり特徴的な表情をしている。
太陽の顔と同じ表情をしたモチーフは、他の岡本作品にも繰り返し現れるから、たぶんお気に入りだったのだろう。横顔と正面から見た顔を真ん中でつなぎ合わせているのは、ピカソの影響なのだろうか。何か大きな矛盾を内包したような、今にも不満が爆発しそうな顔にぼくには見える。