中原兼遠と義仲・平安時代の木曽(Nakasendo – Places related to Yoshinaka and Kanetou)

 「中原兼遠(なかはらかねとお)」と聞いても、木曽町に済んでいる人以外はピンと来ないだろう。兼遠は平安時代末期の武将で、木曽地方に本拠を置く皇別豪族だった。「皇別」とは皇室につながる家系という意味で、父の代までは朝廷に使えていた。その後、信濃国に左遷され、兼遠の代からは木曽谷に住むようになっていた。

 あるとき兼遠とは親しい間柄だった斉藤実盛(さいとうさねもり)が小さな男の子と一緒に訪ねてきて、その子を預かって欲しいと兼遠に懇願する。当時まだ二才だった男の子は名を「駒王丸」といい、関東で起きた合戦で討ち死にした源義賢(みなもとのよしかた)の遺児であるという。

 駒王丸を誅殺するよう命じられた実盛だったが、哀れな駒王丸を殺すに忍びなく、旧知の中原兼遠に駒王丸を託すことにしたのだ。駒王丸は、学問だけでなく、馬術や武芸など兼遠の英才教育を受け、成長して征夷大将軍「木曽義仲(きそよしなか)」となった。

 義仲が幼少期を過ごした中原兼遠の屋敷は、木曽町の栗本(くりもと)地区にあった。JR 利用の場合は木曽福島の隣駅である「原野(はらの)」で下車、徒歩 15 分ほど中山道を木曽福島方向に戻ると「中原兼遠屋敷跡」の標識があるので右折。100 メートルほどでこの陸橋に出る。

 下を JR の線路が通る陸橋を渡り、道標にしたがって進むと、もう一度「中原兼遠屋敷跡」の標識が現れる。見渡すと、「なるほど、ここが・・・」と思わせる風景が広がっている。

 これが中原兼遠の屋敷跡。遠く木曽駒ヶ岳を望み、街道(当時はまだ中山道ではなかった)に面した一方向を除く三方を河岸の崖で囲まれた要害の地だ。

 旗揚げ八幡。13 歳で元服した義仲は、2km ほどは慣れたこの地に新しく館を建てて住んだといわれる。国道 19 号沿いに駐車場があり、周辺を散策できる。

 義仲館(よしなかやかた)。現在はリニューアルのため閉館中。

 徳音寺の境内にある巴御前(ともえごぜん)の銅像。「一騎当千の強者でありながら色白で絶世の美女」と言われているが、あくまでも「伝説」のレベルだ。袖の一振りで松の大木を倒したとか、両脇に武士を二人抱えてその首をもぎ取ったとか、怪物クラスの伝説が残っている。

 巴御前と呼ばれることの多い巴(ともえ)は中原兼遠の娘で、幼少の頃から義仲とともに育てられた。真実のほどは不明だが、美貌の上に怪力で一騎当千の強者だったと言われ、義仲が討たれるときも、最後の七騎になる前になるまで付き従って戦ったと言われる。

 東京大学の木曽観測所には、「トモエゴゼン(Tomo-e Gozen)」と命名された最先端の超広視野高速 CMOS カメラがある。このカメラによる KISS プロジェクトは、超新星をその爆発の直後数時間以内に可視光で観測することを目指す世界初の試みだ。「 木曽の天文台 – 巴御前に会いに行く 」を参照。こんな最先端の研究に巴御前の名前が使われている。

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