幕末の歴史や昭和の日本文学に興味がある人にとって、島崎藤村(しまざきとうそん)の『夜明け前』はいろいろな意味で重要な作品だ。ここ馬籠宿では、『夜明け前』に登場するお寺や宿などを実際に見ることができる。また藤村関連の貴重な写真や作品が展示されている藤村記念館も是非一度は訪れたい場所だ。
これは島崎家の菩提寺でもある永昌寺の本堂。永昌寺は、『夜明け前』には万福寺という名前で出てくる。妻籠宿の中程から歩いて 10 分ほどの丘の上にあり、とても雰囲気が良い。このお寺では宿坊もやっていて座禅の体験も可能だ。
このこぢんまりした建物は永昌寺の境内にある無量壽堂(むりょうじゅどう)。阿弥陀仏の寿命が無限(無量)であることから名付けられた。
住職にお願いすると、無量壽堂の頑丈な南京錠を開けて内部を見学することができる。本尊は阿弥陀如来だが、その阿弥陀様の前にこの小さな円空仏が立っている。
最初の写真でも本堂の向かって右側に見えている大きな柊(ヒイラギ)の木。高さは 3.5 メートルほどできれいに剪定してある。しかし葉っぱが丸くて艶々しているので椿か山茶花かなと思っていると、住職がこれはヒイラギだと教えてくれた。樹齢はなんと 150 年。ヒイラギは老木になると葉っぱがこんなふうに丸くなるのだ。
探すとごく少数だが見慣れた形のヒイラギの葉が混じっているのを発見。年齢を重ねることで丸くなるヒイラギの葉。自分もそうありたいと思う。
藤村の実父である島崎正樹の墓。この島崎正樹が『夜明け前』の主人公である青山半蔵のモデルになっている。ちなみに藤村の本名は島崎春樹という。とてもコアな夜明け前ゆかりの場所だ。正樹は神道を信仰していたので、墓石には戒名ではなく「正樹」とその妻「縫子」の本名が彫られている。
晩年、精神を病んだ正樹が監禁されていた隠居所。資料によっては「座敷牢」と書かれている場合もあるが、正確にどの部屋だったかは不明。
天気の良い日中は隠居所の障子が解放されており、中が見えるようになっている。一見したところ、居心地の良い書斎のように見える。少なくとも座敷牢という雰囲気ではない。
隠居所前にある庭の梅。八重と言うよりポンポン咲きという感じ。
馬籠宿を出て落合宿に向かって歩き出す。落合の棚田も有名だがこの辺りにも畦がきれいに整備された棚田が並んでいる。どの季節に訪れても美しいが、やはり稲刈り前の黄金色に実った棚田が一番だろうか。木曽ではまずお目にかかれない風景だ。改めて「美濃に来たなあ」と実感する。
馬籠宿と落合宿の中間にある新茶屋。江戸時代には立場茶屋と旅籠を営んでいたが、今も中山道を歩く人たちに人気の民宿だ。この新茶屋は長い落合石畳の北の端にあり、また「是より北木曽路」の碑や一里塚、芭蕉の歌碑などが集中している。
是より北木曽路。島崎藤村の揮毫になる。江戸時代にこの場所が美濃と信濃の国境であり、2005(平成17)年までは岐阜と長野の県境だった。
竹藪の中の石畳を歩く。新茶屋から「落合石畳」までの 200 メートルほどは近年になってから整備された石畳だ。
ここからオリジナルの石畳が始まる。
石畳を歩きながら見かけたショウジョウバカマ。
石畳は全部で 840 メートルもあるので、下り坂とはいえ足には厳しい。
医王寺。タイミング良く境内のしだれ桜が満開だ。木曽路三大薬師の一つ。本尊の薬師如来は行基の作。古くは「虫封じの薬師」として信仰を集めていた。「虫封じ」とは子供が虫気が起きないようにおまじないをすることだ。案内板によると「きつね膏薬」も売っていたらしい。この薬は刀傷に特効があった。
医王寺の庭にある見事なしだれ桜。伊勢湾台風で倒れ、この桜は二代目。
落合宿に到着。直角に曲がる下の桝形の角にある善昌寺。道路に突き出して生える「門冠の松」。以前はこの松が寺の山門に被さるように生えていたが、道路建設のために寺を移動して、こんな姿になった。松は樹齢 450 年だという。住職に話によると、桝形の位置に寺があったことで血気にはやる武士の気を静める効果があったと言われる。善昌寺の前に公園があり、ここで昼食。
昼食後、歩き出すとすぐに「おがらん橋」に出る。ここで国道 19 号を渡る。
目の前に突然、菜の花の広がる光景。その向こうには真っ赤な鳥居が見えている。
国道を横切るが、今度はガードをくぐる。登り坂となり棚田と恵那山が良く見える。
子野の一里塚跡。
こんなところに御嶽教の覚明神社がある。
ちょうど良い場所にある「快心庵」休憩所。ベンチやトイレもあって便利。
休憩所で栽培されていたパンジー。
子野の石仏群。頬杖をついている観音様。
七人の仏様が一緒に彫ってある。あまり見たことのない石仏がここでは見られる。
石仏群の桜もちょうど満開。
中山道はこの陸橋で国道を横切っている。ここまで来ると中津川も目と鼻の先だ。
中津川宿の高札場。
中津川駅。